第2話『不純物の行方』 ~section3:再びの警視庁と、現場検証~
月見坂市の中枢にそびえ立つ、巨大なガラス張りの建造物。
このスマートシティの治安を文字通り一手に担う要塞、警視庁本庁舎のメインエントランスに、僕らは足を踏み入れた。
磨き上げられた大理石の床が、頭上の無数のLED照明を反射して眩しく輝いている。行き交う警察官や職員たちは皆、効率化されたシステムの一部のように無駄のない動きで歩き回り、視線の先には常に空間に投影されたホログラムのタスク画面がある。壁面にはAIによるリアルタイムの犯罪予測マップが青白く明滅し、清掃ドローンが音もなく足元を滑っていく。この空間全体が巨大な一つの電子頭脳であることを嫌でも実感させられた。
僕は指定のスクールバッグを両手で強く握りしめ、周囲の威圧感に押し潰されないよう必死に呼吸を整えた。放課後の旧校舎の図書室から、そのまま直行してきたのだ。ブレザー姿の高校生がうろつくには、あまりにも場違いすぎる。
「サクタロウ、何を小動物のように怯えておる。忠犬ならば、主の隣で堂々と胸を張って歩かんか」
僕の一歩先を歩く如月瑠璃が、振り返りもせずに涼やかな声で言い放った。
彼女の歩みには、一切の迷いも緊張もない。艶やかな漆黒のロングストレートヘアが、歩くたびにサラサラと揺れる。彼女は僕と同じく、如月学園の指定である深いネイビーのブレザーとチェックのスカートという放課後の制服姿のままだ。しかし、警察の総本山という威圧的な空間にあっても、彼女はまるで自分の庭であるかのように優雅に闊歩している。
すれ違う屈強な警察官たちが、彼女の放つ特異な静謐さと美しさに思わず足を止め、道を譲っていく。制服姿の美少女というアンバランスさが、逆に彼女の底知れぬオーラを際立たせていた。
「怯えるなって言われても、無理ですよ如月さん。ここは警視庁のど真ん中ですよ。しかも今、内部は昨日の証拠品紛失騒ぎでピリピリしてる真っ最中じゃないですか。僕たちみたいなただの高校生が、こんな時に制服でウロウロしてたら絶対に怪しまれますって」
「ただの高校生ではない。わしは月見坂市のシステム基盤を担う如月コンツェルンの会長、如月弦十郎の孫娘じゃ。そしてお主は、そのわしの専属助手じゃよ。堂々としておれば、誰も咎める者などおらん」
「それは如月さんの理屈ですよ。僕はただの一般市民ですから、警察官の鋭い視線を向けられるだけで寿命が縮む思いです」
僕は周囲の警察官たちの顔色を盗み見た。
誰もが疑心暗鬼に陥っているのが、素人の僕の目から見てもはっきりと分かった。証拠保管庫から過去の押収品がアクセスログなしで消えたという異常事態。システムのエラーでなければ、内部の人間による物理的な犯行しかない。つまり、今このフロアを歩いている同僚の誰かが、汚職の証拠を隠滅した犯人かもしれないのだ。
張り詰めた空気と、互いを監視し合うような刺々しい視線が交錯する中を、僕たちはエントランスの最奥にある特別ゲートへと向かって進んでいく。
そこは一般の来客や下位の警察官が決して立ち入ることのできない、地下の特別区画へと続く専用のエレベーターホールだった。
分厚い強化ガラスのゲートが道を塞ぎ、その両脇には武装した二人の警備部隊員が立っている。彼らのヘルメットに内蔵されたAIカメラが僕たちの顔を瞬時にスキャンし、不審者としてロックオンしたのが分かった。
「そこまでだ。この先は関係者以外の立ち入りは厳しく制限されている。学生の要件なら、中央の受付窓口を通しなさい」
警備部隊員の一人が、感情の一切こもらない機械的な声で僕たちの行く手を遮った。
僕は思わず後ずさりしそうになったが、如月さんは歩みを全く緩めることなく、ゲートの真正面でピタリと立ち止まった。そして、ブレザーのポケットから黒いカードキーを取り出し、警備部隊員の目の前で優雅に提示した。
漆黒のカードの表面に、如月コンツェルンの紋章である金色の六角形が刻まれている。
「如月弦十郎の名代として参った。来月よりこの警視庁に本格導入されるAIシステムに関して、地下の特別証拠保管庫における環境スキャンの事前検証を行う。津嘉山総監からはすでに特別許可を得ておるはずじゃが、お主らの端末には共有されておらんのか」
「如月会長の、名代」
警備部隊員の声に、わずかな動揺が混じった。
彼は手元の端末を素早く操作し、上層部からの特例通達を確認する。月見坂市の心臓部たる警視庁のシステムを構築・管理しているのは、他でもない如月コンツェルンだ。その最高権力者である弦十郎の威光は、この建物の中では警察の階級すらも凌駕する絶対的なパスポートとして機能する。
もちろん、環境スキャンの事前検証というのは完全な建前だ。祖父の権力を利用して、不純物のルーツを探るための現場検証に潜り込む。如月瑠璃の知的な飢餓感は、そのためなら手段を選ばない。
「確認いたしました。大変失礼いたしました、如月様。どうぞお通りください。同行者の方も問題ありません」
分厚い強化ガラスのゲートが、音もなく左右にスライドして道を開けた。
警備部隊員たちが直立不動で敬礼する中を、如月さんはアメジストの瞳を一瞥も動かすことなく悠然と通り抜けていく。僕は警備部隊員たちに何度もペコペコと頭を下げながら、彼女の背中を慌てて追いかけた。
エレベーターホールに入り、地下の特別区画へ向かうボタンを押す。
金属製の重厚な扉が閉まると、周囲の喧騒が完全に遮断され、箱の中は奇妙なほどの静寂に包まれた。エレベーターが静かに降下を始める。
「如月さん、心臓が口から飛び出るかと思いましたよ。あんな嘘、もし津嘉山総監本人に確認を取られたら一発でバレるじゃないですか」
「嘘ではない。わしは確かに事前検証を行うのじゃ。システムの盲点である物理空間の隙間、あの防爆扉のヒンジに残された摩擦痕の検証をな。じいじには、システムの最終チェックのために地下の構造を少し見学したいと伝えてある。総監への根回しも完璧じゃよ」
「それって、要するに現場の警察官を言葉巧みに騙してるってことですよね。本当に無茶苦茶だ」
「サクタロウ。お主はあの青いゴム球が提示した完璧な物理的ハッキングの痕跡を、自分の目で確かめたくはないのか。電子の海から検索したデータが、現実の物理空間においていかにして証明されるのか。それを観測することこそが、助手の本来の役目じゃろう」
如月さんのアメジストの瞳が、エレベーターの薄暗い照明の中で妖しく光った。
警察の汚職や内部のドロドロとした権力闘争など、彼女の視界には一切入っていない。彼女の脳内を占めているのは、ただ純粋な物理法則の証明と、不純物が辿った奇妙なルーツの答え合わせだけだ。
その徹底した冷徹さとブレない美学を前にすると、僕の抱えていた世俗的な恐怖や緊張は、ひどくちっぽけで無意味なものに思えてくるから不思議だった。
無機質な電子音とともに、エレベーターが地下最深部で停止した。
扉が開いた瞬間、僕は思わず身震いをした。上のフロアの快適な温度管理とは明らかに違う、ひんやりと冷たく、そして古いカビと埃の匂いが混じった重い空気が流れ込んできたのだ。
「ここが、警視庁の最も深い闇。過去の証拠品が眠る墓場じゃな」
如月さんはスカートの裾をわずかに払うと、静かな足取りで暗い廊下へと足を踏み入れた。僕もスクールバッグを抱え直し、彼女の後を追う。
廊下の照明は必要最低限に抑えられており、壁は無骨なコンクリートの打ちっぱなしだ。スマートシティの洗練されたデザインはここには存在しない。まるで数十年前の冷戦時代の地下シェルターに迷い込んだかのような錯覚に陥る。
廊下を少し進むと、前方に異常な光景が広がっていた。
通路を完全に塞ぐように、黄色と黒の警戒テープが幾重にも張り巡らされている。その奥には、あのタブレットのホログラムで見た通りの、巨大な特殊チタン合金製の防爆扉が鎮座していた。
扉の周囲には、数人の険しい顔つきをした特捜部の捜査員たちが立ち並び、厳しい目で周辺を警戒している。昨日発生した証拠品紛失事件の現場として、完全な立ち入り禁止区域に指定されているのだ。
「止まれ。この先は特捜部の管轄だ。関係者以外の立ち入りは一切禁じられている。すぐに引き返したまえ」
警戒テープの前に立つ初老の刑事が、鋭い眼光を僕たちに向け、手を突き出して静止を求めた。
上のフロアの警備部隊とは違い、彼らは実際に消えた証拠品の行方を血眼になって追っている捜査員たちだ。その声には、部外者を絶対に寄せ付けないという強い殺気のようなものが籠もっていた。
「引き返す理由はない。わしは如月弦十郎の名代として、この地下区画の環境スキャンを行うために参った。すでに津嘉山総監の許可は得ておる。お主らの方こそ、わしの検証作業の邪魔をする気か」
「如月コンツェルンの名代だと。ふざけるな。今はそれどころじゃないんだ。ここで重大な証拠紛失事件が起きていることは、いくら外部の人間とはいえ聞いているだろう。学生の部外者に現場をうろつかれては困るんだ」
「証拠品が消えたことなど、わしにとってはどうでもいいノイズに過ぎん。わしの目的はあくまで、来月導入されるAIシステムが正常に機能するための、物理的な構造の把握じゃ。もしここでわしを追い返せば、システムの本格導入に遅れが生じることになる。その全責任を、一介の刑事に過ぎないお主が背負う覚悟があると言うのなら、今すぐ引き返してやってもよいぞ」
如月さんの涼やかな、しかし絶対的な冷ややかさを帯びた声が、地下の廊下に響き渡った。
初老の刑事は絶句し、顔を赤くして言葉を失った。目の前にいるのはただの制服姿の少女だ。しかし彼女の背後には、この都市のインフラを完全に掌握する巨大なコンツェルンと、警察組織のトップである総監の影がチラついている。現場の刑事が個人の判断で追い返せる相手ではないのだ。
「チッ。上の連中は何を考えてやがる」
初老の刑事は忌々しげに舌打ちをし、背後の捜査員たちに顎で合図を送った。
「いいだろう、通れ。ただし、扉に触れることは許さん。少しでも怪しい真似をしたら、即座に連行するからな」
警戒テープの一部が外され、僕たちが通るためだけの細い道が作られた。
如月さんは勝ち誇るでもなく、ただ当然の権利を行使するように、静かな足取りでその道を通り抜けていく。僕も刑事たちの突き刺さるような視線を背中に浴びながら、逃げるようにして彼女の背中を追った。
そして僕たちはついに、目的の場所に到達した。
厚さ三十センチ、総重量十五トン。
月見坂市の警視庁地下最深部に鎮座する、絶対的な物理の壁。特別証拠保管庫の防爆扉が、僕たちの目の前に立ちはだかっていた。
表面には無数の電子ロックのパネルが埋め込まれ、いかなるハッキングも寄せ付けない堅牢さを誇示している。しかし僕と如月さんの視線は、そのチカチカと光る電子の防壁には向いていない。
僕たちが見つめているのは、扉とコンクリートの壁を繋ぎ止めている、黒光りする巨大な金属の回転軸。
「これが、物理的ハッキングの舞台となった防爆扉のヒンジ」
僕は乾いた声で呟いた。
犯人は昨日、この分厚い扉が油圧で閉まる直前の瞬間に、あの青いゴムのボールを楔としてねじ込んだのだ。そして十五トンの圧力と強靭なゴムの反発力が、この金属の隙間で壮絶な摩擦と衝突を引き起こした。
「さあ、サクタロウ。お主が検索したデータという名の仮説を、現実の物理的痕跡によって真理へと昇華させる時じゃ」
如月瑠璃はブレザーの胸元から、鈍く光る愛用の銀のルーペを取り出した。
彼女のアメジストの瞳が、獲物を仕留める直前の肉食獣のように、極上の知的な歓喜に細められる。
周囲で特捜部の刑事たちが厳しい監視の目を光らせている中、孤高の天才少女による、たった数ミリのアナログな摩擦痕の『鑑定』が、今まさに幕を開けようとしていた。




