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第6巻:如月令嬢は『鉄扉の跳躍を数えない』  作者: アリス・リゼル


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第2話『不純物の行方』 ~section2:焦燥の刑事と、消えた押収品~

 警視庁本庁舎、地上八階の刑事部フロア。

 月見坂市の治安を維持する中枢は、冷たいLEDの照明と、壁面に埋め込まれた巨大な透明ディスプレイの放つ青白い光に照らされている。通常であれば、AIによる効率的なタスク処理の恩恵で静まり返っているはずの広大なオフィスが、今日に限っては異様な喧騒と熱気に包まれていた。

 フロアを行き交う捜査員たちの足取りは慌ただしく、あちこちのデスクで声を潜めた深刻な通話が行われている。


「鮫島先輩、えらい騒ぎになってます。地下の特別証拠保管庫の件、もう耳に入ってますか」


 早足で駆け寄ってきたのは、捜査一課に配属されたばかりの若手刑事、岸田だった。彼の首から下げられたスマートデバイスが、未処理の緊急タスクを知らせる赤い警告光をせわしなく点滅させている。

 鮫島京奈は、手元の端末で偽装の報告書をスクロールする指を止め、はんなりとした古い都の訛りで応じた。


「騒ぎ、とは何のことどす。うちは今、昨日の窃盗事件の調書をまとめるのに忙しいんえ。保管庫がどないかしはったん」


「証拠品の紛失です。来月から本格導入されるAIの事前スキャンが地下の保管庫を監査したところ、十年前の疑獄事件の押収品が、丸ごと一つデータベースの登録位置から消え失せていることが判明したんです」


 岸田は額に滲んだ汗を手の甲で拭い、周囲の目を気にするように声を一段階落とした。


「ただの紛失じゃありません。あの特別証拠保管庫は、三十センチの防爆扉と最新の生体認証で守られた絶対の密室です。電子ロックのアクセスログには、過去一ヶ月間、誰の入室記録も残っていません。それなのに、物理的な証拠品だけが煙のように消えた。上層部は内部犯による隠蔽工作を疑って、極秘で徹底的なフロアの洗い出しを命じています」


 鮫島は表情を一切変えることなく、手元のタブレット端末の電源を静かに落とした。

 彼女の心臓は警鐘を鳴らしていたが、表面上はどこまでも冷徹な先輩刑事を演じ切る。あの地下の暗闇で、証拠品を携帯型の焼却デバイスで灰にし、トイレの排水溝に流したのは他でもない彼女自身だ。物理的な証拠はこの世から完全に消滅している。


「そないなアホな話がありますかいな。ログも残らんと密室からモノが消えるやなんて、魔法使いでもおらんと無理やろ。機械のエラーと違いますの」


「技術部も最初はシステムの不具合を疑いました。でも、物理的にモノが無いのは事実ですから。津嘉山総監も激怒していて、AIの正式導入までに必ず見つけ出せと厳命が下りました。今、特捜の連中が庁内の監視カメラの映像を血眼になって洗い直しています」


「ご苦労なこってす。ほな、うちは別件の捜査がありますさかい、これで失礼しますわ」


 鮫島は岸田を一瞥し、細身のパンツスーツを翻してフロアを歩き出した。彼女の特注のハイヒールが、無機質な床に硬い足音を響かせる。すれ違う同僚たちの誰もが、証拠品紛失の不可解さに首を傾げ、あるいは疑心暗鬼に陥って互いの顔色を窺っていた。

 鮫島はその喧騒を背に受けながら、本庁舎の端にある防音設備の整った機密資料室へと滑り込んだ。分厚い扉を閉め、AIの監視カメラの死角となる部屋の隅へ移動する。

 彼女が懐から取り出した暗号化通信専用の小型デバイスは、すでに何度目かの着信を知らせる振動を続けていた。画面には、警視庁副総監である権藤晴彦の認識番号が表示されている。

 通話ボタンを押した瞬間、権藤のひどく上擦った声が鼓膜を打った。


「鮫島くん、出んかいな。えらいことになったで。証拠品紛失の騒ぎ、お前の耳にも入っとるやろ」


「聞こえてますえ、副総監。そないに大声を出さんでも。落ち着いておくれやす」


「落ち着いておられるかいな。津嘉山総監がカンカンや。アクセスログが白紙のまま証拠品が消えたことで、システムの脆弱性やのうて、完全に内部の人間による物理的な隠蔽工作やと断定しはった。今、特捜の連中が庁内の監視カメラの映像を一秒単位で洗い直しとるんやぞ」


 デバイス越しに、権藤が自身の爪を噛む乾いた音が聞こえてくる。彼は完全にパニックに陥り、エリート警察官僚としての冷静さを喪失していた。


「ログは残ってへんのやろ。監視カメラかて、うちらが保管庫の前にいた五分間は、副総監の権限でループ映像に差し替えてありますやん。誰も証拠を持ち出した人間の顔を見ることはできひん。証拠品そのものも、このうちが跡形ものう処理しました。堂々としておくれやす」


 鮫島は氷のように冷たい声で権藤を諭した。ここで二人揃って自滅するわけにはいかない。

 しかし権藤の恐怖の根源は、証拠品の行方そのものではなかった。


「アホか。一番の証拠が残っとるやないか。あの防爆扉をこじ開けた物理的ハッキングの痕跡。あの青いゴムの欠片や」


 権藤の声が大きく裏返る。


「四つに千切れたあの欠片を、何者かが拾い集めて持ち去ったんやぞ。もしそいつが、この騒ぎに乗じて特捜部や津嘉山総監のところにあのゴム球を持ち込んだらどないなる。防爆扉のヒンジに残ったゴムの摩擦痕と照合されたら、誰がどうやって侵入したか、手口が完全にバレてしまうんやで」


 青いゴムの欠片。その単語を聞くたびに、鮫島の脳裏にはあの日の地下の暗闇が鮮明にフラッシュバックする。

 防爆扉が油圧の凄まじい圧力で閉まろうとする中、彼女は蝶番の奥底にスーパーボールを捻り込んだ。ゴムの強力な反発力が楔となり、扉の先端にはセンサーの許容誤差の範囲内である数ミリの隙間が残った。そこまでは完璧な手筈だった。彼女はその隙間から特殊なワイヤーを通し、内部のデッドボルトを物理的に固定して、扉を開け放ったのだ。

 保管庫の奥で目的のブツを回収し、証拠隠滅を完了した直後。システムを騙し続けていた防爆扉の油圧モーターが、突如として出力を上げた。閉まりきらない扉に対し、システムが異常を検知する直前の強制的な閉鎖プログラムが作動したのだ。

 数十トンという扉の質量と、油圧の莫大な圧力が、蝶番に挟まれたあの小さなゴム球に一極集中した。鮫島が慌ててワイヤーを引き抜き、扉の外へ逃れた直後。彼女の目の前で、あの青いゴムはけたたましい破裂音とともに四つに引き裂かれ、周囲の暗闇へと弾け飛んだ。


 防爆扉は完全に閉鎖され、電子ロックが正常に作動した。鮫島はすぐに小型のペンライトを点け、床に這いつくばって欠片を探した。清掃ドローンの巡回ルートが来るまでの、わずか六十秒という絶望的な猶予の中で。

 しかし、床にも、壁際にも、何一つ落ちてはいなかった。

 まるで、暗闇の中に潜んでいた何者かが、弾け飛んだ瞬間に空中でかっ攫っていったかのように。見事に一つ残らず消え失せていたのだ。


「誰が見とったんや。うちらの工作を、誰が特等席で見物しとったんや。そいつがいつ、うちらの首を絞めるカードを切ってくるか。生きた心地がせんわ」


 通信機越しの権藤の震える声が、鮫島を不快な回想から引き戻した。

 自分の手口を証明する決定的な証拠が、得体の知れない誰かの手に渡っている。防犯カメラの映像には何も映っていない。そもそもあのエリアのカメラ映像は、権藤の権限で五分間だけループ処理に偽装してあったのだ。他の人間が入り込む余地など物理的に存在しない。

 ならば欠片はどこへ消えたのか。その未知の恐怖が、鮫島の理性を少しずつ削り取っていく。


「副総監」


 鮫島は語気を強め、通信機に向かって低く囁いた。


「あの欠片を拾った奴が誰であろうと、ただのイタズラ目的か、あるいはうちらを脅迫するつもりで隠し持っとるんかは分かりまへん。せやけど、そいつは確実にこの警視庁の内部におる。あるいは、内部の事情に精通した外部のネズミか」


 鮫島は赤いマニキュアを塗った指先で、機密資料室の冷たい金属の壁をトントンと叩いた。


「証拠紛失の騒ぎが大きくなればなるほど、あの欠片を持っとる奴は必ず動き出します。自分が見つけた欠片の意味を確認するためか、あるいはさらなる証拠を探すために、必ずあの地下の特別証拠保管庫に近づいてくるはずどす。野次馬に紛れてな」


「保管庫の周辺には、すでに立ち入り禁止のテープが張られとる。警備の目も厳しいんやぞ」


「やからこそ、うちが直接出向いて見張っときますわ。防犯カメラのモニタリングだけやのうて、物理的にな」


 鮫島の瞳に、獲物を待ち構える肉食獣の冷酷な光が宿った。

 証拠隠滅という泥臭い任務を完遂した彼女にとって、今さら引き返す道など用意されていない。自分のキャリアと自由を守るためなら、邪魔なネズミを何匹殺そうが心が痛むことなどない。


「あの分厚い防爆扉の前に現れて、ヒンジの隙間を嗅ぎ回るような不純なネズミがおったら、うちがその場で踏み潰します。事故に見せかけるなり、公務執行妨害で逮捕して地下の取調室に放り込むなり、手はなんぼでもありますさかい。副総監は、上の連中がこれ以上ループ映像の件を深く掘り下げんように、上手いこと立ち回っておくれやす」


「頼むで、鮫島くん。うちらの命運は、お前にかかっとるんや」


 権藤の震える声が通信機から途切れ、機密資料室に再び静寂が戻った。

 鮫島はデバイスを懐にしまい、深く息を吸い込んだ。スマートシティの完璧な空調が、無機質な空気を彼女の肺へと送り込む。彼女の冷徹な計算と権藤の保身にまみれた焦燥。二人の泥臭い欲望は、あの地下の特別証拠保管庫を中心にして、警視庁全体を巻き込む大きな渦を作り始めていた。


 誰が欠片を拾い、そして今どこに隠し持っているのか。

 その答えを持つ見えざる観測者への恐怖が、鮫島の細い肩を微かに震わせる。彼女はパンツスーツのシワを丁寧に伸ばし、機密資料室の分厚い扉を開けた。

 向かう先はただ一つ。すべての発端であり、物理的ハッキングの舞台となった警視庁の最深部、特別証拠保管庫。

 そこで彼女を待ち受けているのが、自分たちと同じ泥臭い警察官などではなく、冷徹な物理法則とルーツのみを追求する孤高の天才少女であることなど、この時の鮫島京奈は想像すらしていなかった。

 彼女はただ自身の罪を証明しうる物理的な痕跡を死守するため、静かに地下へと続くエレベーターに乗り込んだ。



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