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第6巻:如月令嬢は『鉄扉の跳躍を数えない』  作者: アリス・リゼル


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幕間:冷たい焦燥と、消えた欠片

 警視庁本庁舎、地上四十階。

 月見坂市の美しい夜景をパノラマで一望できる副総監室は、分厚いマホガニーの扉によって外の無機質な廊下から完全に隔離されていた。最新のAI空調システムが室内の温度と湿度をコンマ一桁まで完璧に維持しているにも関わらず、この部屋の空気には、泥のように重く、息苦しい焦燥感が充満している。


 部屋の主である警視庁副総監、権藤晴彦(ごんどう はるひこ)は、最高級の革張りのデスクチェアに座ることもできず、苛立たしげに毛足の長い絨毯の上を歩き回っていた。四十七歳という年齢不相応に白髪の混じった頭髪を乱雑に掻き毟り、血走った眼で窓の外を見つめる。計算し尽くされた光量で輝くスマートシティの夜景は、今の権藤にとっては自分を追い詰める巨大な監視網の網目にしか見えなかった。


「権藤副総監。そないに歩き回られたら、うちの目ぇまで回ってしまいますわ。もう少し、どっしり構えておくれやす」


 苛立つ権藤の背中に、はんなりとした古い都の訛りが投げかけられた。

 声の主は、部屋の隅に置かれた来客用のソファに優雅に腰掛けている女性刑事、鮫島京奈(さめじま きょうな)だ。三十六歳という年齢を感じさせない艶やかな肌と、特注の細身のパンツスーツを着こなす引き締まった体躯。彼女の手には、権藤の秘書が淹れたであろう高級な玉露の入った湯呑みが握られており、その表面で緑色の液体が静かに波打っていた。


「どっしり構えとられるかいな」


 権藤は鮫島を鋭く睨みつけ、低く唸るような声で吐き捨てた。


「津嘉山総監と如月コンツェルンの会長が直々に会談しはったんやぞ。AIシステムの本格導入がいよいよ秒読みに入った。過去の証拠品から捜査記録まで、全部冷徹なデータの海に引きずり出されて、AIの監視下に置かれるんやで。そないなったら、うちらが過去に処理してきた裏の帳簿やら、横流しした押収品の矛盾が、一瞬にして白日に晒されてしまうやないか」


「やからこそ、うちらは先手を打ったんと違いますの」


鮫島は湯呑みをソーサーに戻し、涼しい顔で権藤を見つめ返した。


「あの地下の特別証拠保管庫に眠っていた、うちらの首を絞める忌まわしい不純物は、このうちが自らの手で確実に物理消去しましたえ。灰一つ残さずにな。AIがいかに優秀や言うても、現物が存在せん以上、データ上の矛盾を突くことは物理的に不可能ですわ」


 鮫島の言う通りだ。特別証拠保管庫への侵入と証拠隠滅の工作自体は、完全に成功した。正規のアクセスログを一切残さず、生体認証システムも作動させない。月見坂市の誇る鉄壁のセキュリティを、電子の海からではなく、物理空間の隙間を突くことで無力化したのだ。

 権藤はクリスタルガラスのデキャンタを掴み、琥珀色の洋酒を震える手でグラスに注いだ。カチンと氷が鳴る音が、静まり返った副総監室に虚しく響く。


「問題は証拠品の処理やない。あの忌々しい青いゴムの欠片や」


 権藤はグラスの酒を一気に煽り、赤く充血した眼で鮫島を指差した。


「なんで現場から跡形ものう消え失せた。お前、確実に回収したと報告すべきやったんやぞ。あれはこの警視庁のセキュリティを破った、決定的な物理証拠なんや」


 青いゴムの欠片。

 その言葉が出た瞬間、鮫島の余裕に満ちた表情の奥で、爬虫類のような冷たい光が微かに瞬いた。彼女は組んでいた脚をゆっくりと組み替える。


「あれはうちにとっても完全に想定外の出来事どした。あないなオモチャが、あそこまで脆く弾け飛ぶなんて」


「想定外で済む話やないやろ。もし誰かの手に渡って、あの防爆扉のヒンジに残ったゴムの摩擦痕と照合されでもしたら、うちらの首は綺麗に飛ぶんやぞ」


「副総監、落ち着いておくれやす。うちかて、遊びで失敗したわけやあらへんのです」


 鮫島はソファからゆっくりと立ち上がり、権藤へと歩み寄った。彼女のハイヒールが分厚い絨毯に沈み込む音が、権藤の心臓の鼓動と重なるように室内に響く。


「あの防爆扉が油圧で閉まりかける瞬間、うちは計算通りにあのアホみたいなスーパーボールを、蝶番の奥底に捻り込みました。ゴムの強力な反発力が楔になって、扉の先端にはセンサーの許容誤差の範囲内である、わずか数ミリの隙間が残った。そこまでは完璧な手筈どしたんえ。うちはその隙間から特殊なワイヤーを通して、内部のデッドボルトを物理的に固定して、扉を開け放った」


「そこまでは聞いとる。問題はその先や」


「保管庫の奥で目的のブツを回収して、携帯型の焼却デバイスで完全に灰にした直後どす。システムを騙し続けていた防爆扉の油圧モーターが、突如として出力を上げたんですわ」


 鮫島の声から作られたようなはんなりとした響きが薄れ、現場の刑事としての鋭い緊張感が混じり始めた。権藤は空になったグラスを強く握りしめ、彼女の顔を凝視する。


「閉まりきらん扉に対して、システムが異常を検知する直前の、強制的な閉鎖プログラムが作動したんやと思います。数十トンという扉の質量と、油圧の莫大な圧力が、蝶番に挟まれたあの小さなゴム球に一極集中した。うちは慌ててワイヤーを引き抜いて、扉の外へ逃れました。そしてその直後。うちの目の前で、あの青いゴムはけたたましい破裂音とともに、四つに引き裂かれて弾け飛んだんですわ」


 その瞬間の光景を思い出したのか、鮫島は自身の細い指先をスッと見つめた。彼女の指先には、ゴムの強烈な反発力に抗った際の微かな痛みがまだ残っているようだった。


「弾け飛んだゴムの欠片は、異常な反発力で廊下の壁や床に乱反射して、暗闇のあちこちへ消えていきました。防爆扉は完全に閉鎖されて、電子ロックが正常に作動した。うちはすぐに小型のライトを点けて、床に這いつくばって欠片を探しましたえ。清掃ドローンの巡回ルートが来るまでの、わずか六十秒の猶予の中でな」


「それで一つも見つからんかったと言うんか。そないな馬鹿な話があるかいな。お前みたいに優秀な刑事が、廊下に散らばった四つの欠片を一つも見落とすやなんて」


「事実やからしゃあないですやろ。まるで暗闇の中に潜んでいた何者かが、弾け飛んだ瞬間に空中でかっ攫っていったかのように。見事に一つ残らず消え失せていたんどす」


 鮫島の顔に明確な苛立ちと、得体の知れない事象に対する薄気味悪さが浮かんだ。

 自分の手口を証明する決定的な証拠。それが四つに砕け散り、そして自分の目の前から手品のように消失した。防犯カメラの映像には何も映っていない。そもそもあのエリアのカメラ映像は、権藤の権限で五分間だけループ処理に偽装してあったのだ。他の人間が入り込む余地など物理的に存在しない。

 ならば欠片はどこへ消えたのか。権藤は両手で顔を覆い、デスクの角に力なく寄りかかった。


「誰かが見とったんや。うちらの工作を。そして四つの欠片を拾い集めて、うちらの首を絞めるためにどこかに隠し持っとる。それがいつ、誰の口から津嘉山総監や如月コンツェルンの耳に入るか分かったもんやないで」


「怯えすぎどす、副総監」


 鮫島は冷ややかに言い放ち、デスクの上に置かれた権藤のタブレット端末を赤いマニキュアを塗った指で叩いた。画面がパッと明るくなり、警視庁のエンブレムが浮かび上がる。


「仮に誰かが欠片を拾ったとして、それが防爆扉をこじ開けた楔の残骸やと気付ける人間が、この警視庁に何人おりますの。皆、電子的なハッキングやサイバー犯罪にばかり気を取られて、物理的な扉の構造なんて見向きもせん連中ばかりやないですか。ただの引き千切られた子供のオモチャを見て、あの完璧な防爆扉のシステムを破る手段やと直結できる人間なんて、おるはずがあらへん」


「せやけど万が一ということがあるやろ。今の警視庁は、AI導入の件で外部の人間や視察団が頻繁に出入りしとるんや。もしどこかの勘の鋭い専門家がその欠片を目にして、ヒンジの構造にまで思考を巡らせたら」


「その時は」


 鮫島は権藤の言葉を冷たく遮り、至近距離から彼の血走った眼を覗き込んだ。彼女の瞳の奥には警察官としての矜持など微塵もなく、純粋な殺意と生存本能だけが黒々と渦巻いている。


「その時は、その勘の鋭いネズミを、うちが直接踏み潰すだけの話どす」


「鮫島くん」


「案ずることはあらへん。特別証拠保管庫の監視システムは、うちの端末からも裏ルートで常時モニタリングできるように細工してあります。もしあの防爆扉の周辺を嗅ぎ回るような怪しい動きをする輩が現れたら、すぐにうちが処理しますわ。事故に見せかけるなり、別件の容疑を被せるなり、やり方はなんぼでもありますさかい」


 鮫島はそう言って、ひんやりとした笑みを浮かべた。

 権藤はその凄みに圧倒され、それ以上言葉を続けることができなかった。自分の手足として使っているはずのこの女刑事が時折見せる底知れぬ狂気。もはや引き返すことなどできない泥沼に足を踏み入れていることを、権藤は自らの震える手を見て実感するしかなかった。彼は再びグラスを手に取り、今度は酒を注がずにただ強く握りしめた。


「頼んだで、鮫島くん。うちらの過去を守り抜くんや。どんな手段を使ってでもな」


「ええ、お任せしておくれやす。警視庁の闇は、うちが責任を持って底の底に沈めたままにしておきますさかい」


 鮫島は一礼すると、ハイヒールの音を響かせて副総監室を後にした。マホガニーの扉が重々しく閉まり、権藤は再び一人、広大な部屋に取り残された。

 窓の外のスマートシティは、彼らの泥臭い陰謀など知る由もなく、ただ無機質に、そして完璧な論理の元に光を放ち続けている。権藤はデスクの上のタブレット端末に視線を落とした。AI導入までのカウントダウンが、画面の隅で静かに時を刻んでいる。


 消えた四つの欠片。

 見えざる回収者の影。


 そしてその欠片がすでに、特異な観察眼と冷徹な論理を持つ孤高の天才の手に渡っていることなど、この時の権藤も鮫島も知る由もなかった。


 警視庁の奥深くに隠された巨大な腐敗は、静かに、しかし確実に崩壊の足音を響かせ始めていた。



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