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第6巻:如月令嬢は『鉄扉の跳躍を数えない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『球体と腐敗』 ~section10:動き出す鑑定と、巨大な闇~

 旧校舎の図書室は、深い沈黙に包まれていた。

 窓の外では月見坂市の空を赤く染め上げていた夕日が、ゆっくりと地平線の向こうへと沈みかけている。室内に伸びていたマホガニーのアンティークテーブルの影は輪郭を曖昧にし、代わって薄闇が足元からひっそりと這い上がり始めていた。

 最新の空調設備など存在しないこの部屋の空気は、少しだけ肌寒さを増している。しかし僕の額には、ジワリと冷たい汗が滲んでいた。


 ただの子供の玩具である、青いスーパーボール。

 それがシステムを騙すための楔として使われ、強大な物理的圧力に耐えきれずに千切れたという如月さんの完璧な論理。デジタルを過信したスマートシティの死角を突く、極めて泥臭く、そして合理的な物理的ハッキング。その手口の鮮やかさと恐ろしさに、僕は喉の渇きを覚えた。


「でも、如月さん」


 僕は乾いた唇を舌で湿らせ、疑問を口にした。


「スーパーボールが千切れるほどの油圧で閉まる分厚い扉なんて、警視庁のどこにあるんですか。普通のオフィスのドアやロッカーじゃありませんよね。戦車の砲撃でも防ぐような防爆扉なんて、そう簡単に見つかるものじゃありません」


 僕が問いかけると、ビロードの椅子に深く腰掛けた如月瑠璃は、アメジストの瞳を静かに細めた。西日の残照が彼女の美しい横顔を照らし出し、その冷徹な知性を孕んだ表情に深い陰影を落としている。


「サクタロウ。お主は昨日、わしが如月コンツェルンの会長である如月弦十郎の用事に付き添って、警視庁へ赴いていたことを忘れたわけではあるまい」


「もちろん覚えてますよ。トップ同士の会談があったんですよね」


「いかにも。帰りの車の中で、わしはじいじから少しばかり庁内の情報を引き出しておいたのじゃ。この月見坂市の中枢たる警視庁において、最も分厚く、凄まじい圧力で閉まる扉がどこにあるのかをな」


 如月さんは真っ白な手袋を嵌めた指先で、テーブルの上の歪な青い欠片を軽くノックした。コツン、という硬い音が響く。


「警視庁の地下深く。過去数十年にわたる凶悪犯罪や重大事件の押収品、そして裁判の行方を左右する決定的な証拠品が眠る、ただ一つの絶対的な密室。特別証拠保管庫じゃよ」


 その重々しい響きに、僕は大きく息を吸い込んだ。刑事ドラマや映画でしか聞いたことのないような場所だ。厳重なセキュリティシステムに守られ、限られた一部の人間しかアクセスできない、警察組織の最も深い闇を抱え込んだ心臓部。


「犯人はその特別証拠保管庫に侵入しようとしたってことですか。証拠品を盗み出すために」


「盗み出すというよりは、消し去るためじゃろうな」


 如月さんは手元のティーカップをゆっくりと持ち上げ、完全に冷めきったダージリンを一口含んだ。その所作には焦りや興奮といった情動は一切なく、ただ盤上の駒の動きを確認するような冷徹さだけがある。


「じいじの会談の目的は、警視庁への最新AIシステムの本格導入に関する最終調整じゃった。このシステムが稼働すれば、過去のあらゆる書類、証拠品、捜査記録が完璧なデータとして照合され、AIによる厳格な再評価と監視の目に晒されることになる。人間の手による曖昧な管理や、忖度という名のノイズは一切許されなくなるのじゃ」


 如月さんの言葉が、冷たい刃のように僕の脳裏に突き刺さった。白日に晒されては困る過去の証拠品。


「過去の不正な押収品の横流しとか、裏金作りの帳簿とか。警察内部の汚職の証拠、ってことですか」


「ご名答じゃ。AIシステムが本格導入され、過去の全データが照合される前に、物理的に保管庫に侵入して自分たちの首を絞める証拠を隠滅する必要があった。しかし正規の手続きを踏めばアクセスログが残る。かといって電子的にハッキングすることも不可能。だからこそ、犯人はシステムの目を欺くために、スーパーボールの楔を利用した物理的ハッキングという泥臭い手段に打って出たのじゃ」


 僕はマホガニーのテーブルを両手で強く握りしめた。木の硬い感触が、これが現実の出来事であることを僕に容赦なく告げている。


「じゃあ、このスーパーボールを扉に挟んだ犯人は、警視庁の人間ってことじゃないですか。特別証拠保管庫の場所や警備のタイミングを知っていて、過去の証拠を消さなきゃいけない立場にある、かなり上の階級の警察官かその関係者だ」


 僕の声は自分でも驚くほど上擦っていた。ただの高校生である僕の平穏な日常から、あまりにもかけ離れすぎている。警察組織の内部に巣食う汚職。迫り来るAIの監視から逃れるための証拠隠滅工作。その実行犯は、この月見坂市の治安を守るべき立場にある人間なのだ。もし僕たちがこんなことに首を突っ込んでいるとバレたら、ただの停学や退学では済まないかもしれない。下手をすれば社会的に完全に抹殺される。


「如月さん、これヤバいですよ。僕たちみたいなただの高校生が、警察の内部の汚職事件なんて追うのは危険すぎます」


「サクタロウ、落ち着け。お主はまた、余計な情動のノイズに振り回されておるぞ」


 如月さんの冷ややかで透き通るような声が、僕のパニックを強制的にクールダウンさせた。彼女はビロードの椅子に深く背中を預け、呆れたように小さく息を吐き出す。


「わしは警察の汚職を暴きたいわけでも、正義の味方ごっこをしたいわけでもない。そんな俗っぽい人間の業などどうでもいいのじゃ。保身に走る汚れた大人たちの心理など、情動の視座を通して見れば、ひどく単純で退屈なエラーに過ぎん。わしの心を惹きつけてやまないのは、この不純物が辿った物理的なルーツの方じゃよ」


 如月さんは真っ白な手袋の指先で、スーパーボールの欠片をそっと撫でた。


「実行犯は重厚な防爆扉をこじ開けようとし、結果としてゴム球が圧力に耐えきれずに千切れて弾け飛ぶという失態を犯した。己の罪の痕跡を回収し損ねた、哀れで泥臭い鼠じゃ。あちこちに散らばった欠片は、弾け飛んだ物理的な跳ね返りの結果か、実行犯が慌てて靴の裏にくっつけたまま庁内を歩き回った痕跡か、あるいは清掃ドローンが弾き飛ばした偶然の産物かもしれんな」


 彼女はそこで言葉を区切り、アメジストの瞳で僕を真っ直ぐに射抜いた。


「いずれにせよ、そんな人間の焦燥や偶然の配置は、わしにとってはすべてルーツ解明にあたっての副産物に過ぎん。汚職を暴いて誰かを救おうが、警察組織に感謝されようが蔑まれようが、わしの知ったことではない。わしが知りたいのはただ一つ。この子供の玩具がどれほどの物理的な圧力に耐え、そしてどのようにして限界を突破し破壊されたのか。その冷徹な物理法則の帰結を、数学的に完全に証明することじゃ」


 如月さんはテーブルから銀のルーペを取り上げ、ブレザーの胸ポケットに静かに収めた。そして居住まいを正す。彼女がこの所作をする時、それは主から助手への絶対的な命令が下される合図だ。


「さあ、サクタロウ。ここから先はお主の出番じゃ。わしの物理的観察眼と論理的推論は、すでにこの不純物の過去をほぼ完璧に組み上げている。じゃがこれをただの推測ではなく、揺るぎない真理として証明するためには、どうしても正確なデータが必要なのじゃ。あのチカチカするデジタル機器の画面を睨みつけるのは、どうにもわしの肌に合わんからの」


 如月さんは顎で、僕の足元に置かれたスクールバッグを指し示した。


「お主の得意な検索能力で、電子の海から真実の破片を拾い上げてこい。警視庁の地下、特別証拠保管庫に採用されている防爆扉のメーカーと、その扉を支えるヒンジの構造データじゃ」


「ヒンジの構造データ」


 僕はオウム返しに呟いた。


「そうじゃ。ヒンジの正確な隙間の寸法と、扉が閉まる際の油圧モーターの出力。そしてこの市販のスーパーボールのゴムの反発係数。それらの数字が揃えば、このゴム球が楔として機能した数ミリの隙間の計算と、最終的に破壊に至った圧力の限界値が、物理的に完璧に証明できるはずじゃ」


 防爆扉のメーカーと、ヒンジの構造。それを検索するということは、警察の内部に潜む汚職の実行犯が行ったアナログな手口を、物理法則という絶対的な証拠で丸裸にするための設計図を用意するということだ。ただの地下アイドル好きの高校生である僕が、そんな巨大な闇へと繋がる扉を自らの手で開くことになる。

 僕は生唾を飲み込み、マホガニーのテーブルの上の歪な青い塊を見た。そしてビロードの椅子で優雅に微笑む、孤高の美少女を見た。


 恐怖がないわけではない。今すぐスクールバッグを持ってこの旧校舎から逃げ出したい気持ちもある。家に帰って推しの画像を見て、平和な日常に浸っていたい。しかし如月瑠璃という特異な存在が放つ抗いがたい引力に、僕は逆らうことができなかった。彼女の冷徹な論理が、この世界に隠されたルーツを次々と丸裸にしていくその鮮やかな過程を、僕は誰よりも一番近くで、特等席で見ていたいと思ってしまっているのだ。


「分かりましたよ、如月さん」


 僕は小さく息を吐き出し、諦めとほんの少しの高揚感を込めて答えた。


 スクールバッグのジッパーを開け、中から最新型のタブレット端末を取り出す。画面を起動すると、月見坂市のネットワークに接続された証であるアイコンが、無機質に青く発光した。


「警視庁の証拠保管庫の防爆扉ですね。メーカーの公開データや、過去の入札記録のキャッシュあたりから辿れば、ヒンジの構造図くらいは裏から引っ張ってこれると思います」


「頼んだぞ、忠犬。わしの推理に、完璧な数字という名の骨組みを与えてみせよ」


 如月さんは満足げに頷き、夕闇が迫る窓の外へと視線を向けた。

 薄暗い図書室の中で、僕のタブレット端末の放つ青白い光だけが、不自然に周囲を照らし出している。ただの子供の玩具が辿った、権力の腐敗と物理的圧力のルーツ。人間の泥臭い欲望や意図などすべて副産物として切り捨て、ただ純粋なモノの過去だけを追い求める。

 如月瑠璃の特異な歯車が、僕の検索という電子の鍵を回すことで、いよいよ本格的に噛み合い始めた。誰の情動にも寄り添わない、冷徹で極上の鑑定が、今ここに幕を開ける。



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