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第6巻:如月令嬢は『鉄扉の跳躍を数えない』  作者: アリス・リゼル


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プロローグ:密夜の共犯と、四つの誤算

 完璧に制御された月見坂市の夜景が、壁一面のガラス窓越しに広がっている。

 ネットワークによって最適化された新市街の灯りは、どこまでも規則的で、一切のノイズを感じさせない。冷徹なまでに論理的な光の海を見下ろす高級ホテルの最上階。極限まで照明を落としたスイートルームの静寂を、グラスの中で氷が溶ける微かな音が破った。


「ほんまに、あの分厚い鉄扉が数ミリ開いたままになるやなんて……狐につままれたような気分どすえ」


 窓際に立つ女が、琥珀色の液体を揺らしながら艶やかなため息をこぼした。

 三十代半ばと思しき、洗練されたシルエット。その口調には、この近代的なスマートシティには似つかわしくない、古き良き都を思わせるはんなりとした訛りが混じっている。


「せやろ。どれだけ最新のAIや電子ロックで固めようと、扉の構造そのものは物理的な金属と蝶番や。その根元の隙間に、極めて高い反発力を持ったゴムを挟み込めば、センサーは『正常に閉鎖した』あるいは『規定値内の微細なズレ』と誤認しよる。いくら如月のシステムが優秀でも、物理法則の隙間までは監視しきれんのや」


 革張りのソファに深く腰を掛けた男が、低く笑う。

 五十に手が届こうかという年嵩の男だが、その立ち振る舞いには巨大組織の頂点近くに君臨する者特有の、絶対的な自信と余裕が満ちていた。彼もまた、女と同じ雅な訛りを口にする。

 男は立ち上がると、音もなく女の背後に歩み寄り、その華奢な肩を背後からそっと抱き寄せた。女は抵抗するどころか、安心しきったように男の腕に自身のそれを重ね、その胸に体重を預ける。

 二人の間に流れるのは、単なる上司と部下、あるいは共犯者という言葉だけでは片付かない、甘く親密な熱だった。


「これで、あの厄介な過去の証拠品は綺麗さっぱり処分できましたな。あの小喧しいAIシステムが本格導入されても、私らの経歴は真っ白なまま。何の埃も出まへん」


「ああ。よくやってくれた。お前が直々に手を下してくれたおかげや」


「あなた様のためどすもの。これくらい……」


 女が振り返り、甘い視線を交わそうとしたその時だった。

 男の表情から、ふっと余裕の笑みが剥がれ落ちた。女の肩を抱いていた手に、微かな、しかし明確な力が入る。


「……ただ、一つだけ計算外のことがあったな」


「計算外……あの、丸い玩具のことどすか?」


 女の表情もまた、サッと引き締まった。甘い空気が一瞬にして霧散し、冷ややかな緊張が部屋を支配する。

 彼らが警視庁最深部の防爆扉をハッキングするのに用いたのは、高度な電子機器ではない。縁日の屋台や、カプセルトイで手に入るような、ありふれた青いスーパーボールだ。


「ああ。防爆扉が閉まる凄まじい圧力に耐えきれず、あのゴムの塊は四つに引き千切れおった。……そして、現場から綺麗さっぱり消え失せていたんや」


「清掃用のドローンか、ルンバのような機械が片付けたのではありまへんの?」


「いや、システムの清掃ログには一切記録が残っていなかった。それに、千切れた欠片があの周辺のどこにも転がっていないこと自体があり得ないんや。跳ねてどこかの隙間に入り込んだとしても、一つくらいは見つかるはずやろ」


 男の声に、隠しきれない焦燥が混じる。

 女もまた、冷たいものを飲んだわけでもないのに、背筋にぞくりと悪寒が走るのを感じた。


「……誰かが、持ち去ったと?」


「意図的にな。あの時間に、あの場所で、我々がどのような手口で扉を突破したのか。すべてを特等席で観察していた『誰か』が、あの四つの欠片を回収したとしか考えられん」


 沈黙が降りた。

 眼下に広がる月見坂市の光の海は、相変わらず論理的な美しさを保っている。しかし今、二人はその完璧なシステムのどこかから、得体の知れない冷徹な眼差しで見下ろされているような錯覚に陥っていた。

 自分たちは完璧にやり遂げたはずだった。誰の目にも触れず、システムの死角を突き、泥臭くも確実な方法で過去を消し去った。

 しかし、その痕跡である不純物を、誰かが拾い上げている。


「……気味が悪いお話どすね。一体誰が、何のために。もし、その欠片を証拠として上層部に提出されたら……」


「そう単純な話なら、とっくに我々のところに監査が入っているはずや。だが、もしそいつの目的が単なる告発ではないとしたらどうだ。例えば、我々への宣戦布告として、あるいは見せしめとして、我々の足元や日常の動線にわざとらしく配置して、怯える様を観察しようとしているのだとしたら……」


 男の言葉に、女は息を呑んだ。

 それは、誰かを試すためのゲームの盤面上に、自分たちが勝手に駒として配置されたような、抗いようのない気味の悪さだった。


「……明日から、少し警戒を強めまひょ。尻尾を掴まれるわけにはいきまへん」


「ああ。何食わぬ顔で、いつもの職務をこなすんや。我々は完璧にやり遂げた。あの青い不純物が庁内のどこに転がっていようと、誰が拾おうと、我々に辿り着くことなど絶対にあり得ないんやからな」


 男は自分自身に言い聞かせるように、グラスの酒を飲み干した。氷がカランと、虚ろな音を立てる。

 彼らはまだ知らない。

 完璧にやり遂げたはずの犯罪の痕跡――その『青い不純物』のルーツを、狂気的なまでの観察眼と冷徹な論理で辿り始める、孤高の令嬢の存在を。

 そして、誰かが意図的に散らばせたその四つの欠片が、やがて警視庁という巨大組織の暗部を暴き出し、彼ら自身の足元を完全に崩し去る引き金となることなど。



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