7.
大丈夫。彼は強い。 すぐに帰ってくるはずだ。 私は安全なこの塔で、彼の帰りを待っていればいい。
そう自分に言い聞かせた、その時だった。
バリンッ!!
何かが割れるような音が、私の耳元で響いた。
「え?」
見ると、私の体を守っていたクライヴ様の結界に、亀裂が入っていた。
『……見ツケタ……』
頭の中に、直接響くようなドス黒い声が聞こえた。
『結界ナド……無駄ダ……。 我ガ求メルノハ……封印ヲ施シタ、貴様ノ魂ダケダァァァァッ!!』
「きゃあああああっ!?」
足元の床が紫色に発光した。 クライヴ様の結界を、ドラゴンの執念が内側から食い破ったのだ。 抵抗する間もなかった。 ダイニングルームの暖かい空気が一瞬で消え去り――。
◇
ヒュオオオオオオオッ!!
次に目を開けた時、そこは猛吹雪の中だった。
「さ、む……っ!?」
肌を刺すような冷気。視界を遮る白い闇。 私はエプロン姿のまま、雪の上に放り出されていた。 あまりの寒さに、息が凍りつく。
そして、目の前には。
『グルルルル……』
見上げるほど巨大な、漆黒の「黒竜」がいた。 爛々と輝く金色の瞳が、雪の上に転がる私を見下ろしている。
そして――そのドラゴンの向かい側、少し離れた空中に、クライヴ様が浮いていた。 彼は私に背を向け、ドラゴンと対峙していた。 到着したばかりなのだろう。彼はまだ、私がここに転移させられたことに気づいていない。
「ク、クライヴ様……ッ!」
叫ぼうとしたが、寒さで声が出ない。 ドラゴンが、足元の私に気づいてニヤリと口を歪めた。
『来タカ……忌々シイ術者メ……!』 「……あ?」
ドラゴンの視線の先を追って、クライヴ様がゆっくりと振り返った。 そして、雪の上に倒れている私を見て――その目が、極限まで見開かれた。
「ル、チア……?」
彼の顔から、血の気が引いた。 一瞬の思考停止。 なぜ、彼女がここにいる? 私の結界は? 塔に置いてきたはずでは?
その隙を、ドラゴンは見逃さなかった。
『死ネェェェェ!!』
ドォォッ!! ドラゴンの口から、紫色の猛毒ブレスが吐き出された。 標的はクライヴ様ではない。無防備な私だ。
「――ッ!!!」
クライヴ様が、絶叫した。 呪文の詠唱などない。転移の構えすら間に合わない。 彼はただ、純粋な魔力の塊となって、私とブレスの間に体をねじ込んだ。
ドガァァァァンッ!!
黒い閃光が走り、ブレスが弾け飛ぶ。 舞い上がる雪煙。
「……う、うぅ……」
私は目を開けた。 目の前には、私に覆いかぶさるようにして立つ、クライヴ様の背中があった。 彼の広げた片手によって、ブレスは霧散していた。 けれど、彼の手は小刻みに震えている。
「……計算外だ」
地獄の底から響くような、低い声。
「私の結界を破ってまで、彼女を呼んだのか。 私の計算を上回るほどに、貴様の執念が腐っていたとはな」
彼はゆっくりと顔を上げた。 その瞳は、怒りを通り越して、感情の一切が欠落した「虚無」の色をしていた。
「怖かっただろう、ルチア。寒かっただろう。 ……すまない。私の失態だ」
彼は優しく私に声をかけながら、ドラゴンの方へと向き直った。
「――死んで詫びろ、ゴミ屑」
カッッッ!!!!
彼が指を弾いた瞬間。 世界から「音」が消えた。 魔法ですらない。ただの純粋な、圧縮された魔力の暴発。 それがドラゴンの巨体を飲み込み、原子レベルで分解していく。
『ガ、ァ……ッ!?』
悲鳴すら上げられなかった。 黒竜は、抵抗する間もなく、その存在を雪山から消滅させられた。 一撃。 かつて世界を恐怖させた魔王軍の幹部が、文字通り「ゴミのように」処理されたのだ。
静寂が戻った雪山に、風の音だけが響く。
「……ルチア」
クライヴ様が、よろめくように私の方へ向き直った。 彼は私の前に膝をつき、震える手で私の頬に触れた。
「無事か……? 怪我はないか……?」
その顔は、ドラゴンを倒した勝利者のものではなく、大切なものを失いかけた男の、泣き出しそうな顔だった。
「ごめん……ごめんな……。もう二度と、こんな目には遭わせない……」
彼は私を強く抱きしめると、逃げるように転移魔法を発動させた。 一瞬で視界が歪み、私たちは暖かい塔へと帰還した。
私は、彼の腕の中で思った。 この人は、最強なんかじゃない。 ただ、失うことを何よりも恐れている、臆病で、優しい人なのだと。
私は、彼の腕の中で思った。 この人は、最強なんかじゃない。 ただ、失うことを何よりも恐れている、臆病で、優しい人なのだと。
◇
暖炉の火が爆ぜる音だけが、静かなサロンに響いていた。 落ち着きを取り戻したクライヴ様は、ソファに座る私の足元に跪き、痛々しげに私の右肩――痣のある場所をさすっていた。
「……すまない。私の失態だ」
彼は深く項垂れた。
「なぜ、もっと早く気づかなかったんだ。 あの黒竜が、ただの寿命や偶然で目覚めたわけではないということに」
「え……?」
私は温かい紅茶のカップを両手で包みながら、彼を見下ろした。
「偶然じゃないんですか? 封印が緩んだって……」
「……ああ。あれは『共鳴』したんだ」
彼は顔を上げ、少しだけ迷うような瞳をした後、静かに語り始めた。
「私は君に、護身のための魔法や、この塔の結界の権限を与えていただろう? 私の魔力が、常に君の中に流れていたんだ。 どうやらあのトカゲは、君から溢れ出る私の魔力を感知して、君のことを『かつて自分を封印した術者』だと勘違いしたらしい」
「えっ……勘違い?(そもそも、私の中にクライヴ様の魔力が流れていることも初耳なんですけど)」
私は目を丸くした。
「じゃあ、あの竜が言っていた『術者の魂をよこせ』っていうのは……」
「ああ。君の中に混じった私の魔力を、死んだ相棒の魔力と誤認したのだろう。 三百年の眠りでボケていたのか、それとも単に私の魔力の匂いが染み付いていたせいか……」
彼は苦しげに眉を寄せ、私の手を強く握りしめた。
「どちらにせよ、私のせいだ。 私が君を大切に思い、魔力を注ぎすぎたせいで……君を標的にしてしまった」
(……嘘だ)
女の勘がそう告げていた。 いくらなんでも、ただ魔力を貰っていただけで、あんな執拗に狙われるだろうか? あの時、竜は確かに「お前を見つけた」と言っていた。 もっと根本的な、魂の深い部分で私を呼んでいたような気がする。
けれど、クライヴ様の瞳があまりに悲痛で、自責の念に押しつぶされそうだったから。 私はそれ以上、彼を問い詰めることができなかった。
「……皮肉な話だ」
クライヴ様が自嘲気味に笑った。
「君を守るために最強の力を手に入れたつもりだったのに、君をそばに置いたこと自体が、君を危険に晒す引き金だったなんて」
「……クライヴ様」
私は彼の手を握り返した。
「私、どこにも行きませんよ」 「ルチア……?」 「だって、勘違いだろうとなんだろうと、あなたが最強なんでしょう? どんな災厄が飛んできても、あなたがまた『一撃』で追い払ってくれるって信じてますから」
私が精一杯の強がりで微笑むと、彼は一瞬驚いた顔をして――それから、泣き笑いのような、どうしようもなく愛おしそうな表情で私を見つめた。
「……ああ。約束する」
彼は私の手の甲に、誓いの口づけを落とした。
「世界中の全てが君の敵になろうとも、私だけは君の味方だ。 たとえ神が相手でも、君を傷つけるものは私が全て排除する」
それは、甘い愛の言葉のようでいて、狂気を含んだ「魔術師」の宣言だった。 けれど今の私には、その重すぎる愛が、何よりも温かく感じられた。
――クライヴ様は、私に嘘をついている。 きっと、もっと重大な理由を隠している。 けれど、それはきっと私を守るための嘘だ。
私たちはまだ知らない。 黒竜の覚醒と消滅は、これから始まる「過去との対峙」の、ほんの序章に過ぎないことを。




