6.
その日の夕食は、クライヴ様のリクエストの野菜をたっぷり煮込んだクリームシチューだった。
「……美味い」
ダイニングルームの長テーブルで、クライヴ様は一口食べるごとに、しみじみと呟いていた。 王宮の晩餐会に出てくるような高級料理ではない。 乱切りにした人参とジャガイモ、それに干し肉を戻して煮込んだだけの、庶民の家庭料理だ。
「本当に、君の料理は魔法だ。 最高級のレストランのフルコースよりも、この泥臭い人参の味が、私の心を震わせる」
「あの、泥臭いって褒め言葉じゃないですよ。ちゃんと洗いましたから」
私は苦笑しながら、パンをちぎってスープに浸した。 彼のテーブルマナーは完璧だ。スープを口に運ぶ所作一つとっても、洗練された貴族の優雅さがある。元は、男爵家である私なんかよりも位の高い どこかの貴族だったのだろうか。 それなのに、食べているのが私の作った田舎料理だというギャップが、なんだかおかしい。
「……昔、こういう温かいものを、雪山で食べたことがあったな」
ふと、クライヴ様が遠い目をして言った。 その瞳は私を見ているようで、私ではない誰かを見ている。
「食材が尽きかけていて、残った保存食を全部鍋にぶち込んだだけのものだったが……私の人生で一番美味い食事だった」
彼はそこで言葉を切ると、少し寂しそうに微笑んでスプーンを置いた。
(……きっと、『エレナ』さんとの思い出なんだろうな)
私は胸の奥がチクリと痛むのを感じながら、何も聞かずにスープを飲んだ。 彼が夢の中で呼んでいた名前。 私がその人の「代わり」であることはクライヴ様の接し方で薄々気づいていたけれど、それを聞くのは怖かったし、彼も頑なにその名前を私の前では口にしなかった。
だから私も、気づかないフリをする。 それが、この高待遇の職場を守るための、暗黙のルールだと思ったから。
「そういえば、さっきの騎士団長さんが言っていた『黒竜』って、そんなにヤバいんですか?」
私は空気を変えるために話題を振った。 クライヴ様は興味なさげに肩をすくめた。
「かつて魔王軍の幹部だったドラゴンだ。硬い鱗と、全てを腐らせる毒のブレスが厄介でな。 三百年前に半殺しにして、山脈の氷河に封印したんだが……どうやら『彼女』の封印が緩んで、寝起きに暴れているらしい」
「え? 『彼女』?」
私は聞き返した。 てっきり、大魔導師である彼が封印したのだと思っていたからだ。
「……そうだ。当時の私は、魔法など一つも使えない、ただの剣士だったからな」 「えっ!? クライヴ様が、剣士?」
私は目を丸くした。 今や世界最強の「大魔導師」と呼ばれる彼が?
「ああ。当時の私は、剣を振り回すことしか能がない脳筋野郎だったよ。 あの黒竜と戦った時も、私の剣では奴の鱗に傷一つつけられなかった。 ……あいつを氷河に封じ込めたのは、私の相棒だった魔術師だ。彼女が、命を削るような大魔法を使って、私を守ってくれたんだ」
彼は自嘲気味に笑い、自分の手のひらを見つめた。 そこには、魔法使い特有のインク染みや魔力の痕跡ではなく、古い剣ダコがうっすらと残っているように見えた。
「じゃあ……どうして今は、大魔導師なんて呼ばれているんですか?」
私が尋ねると、彼の動きがピタリと止まった。
「…………」
長い、沈黙が落ちた。 彼はスプーンを置いたまま、何かを喉の奥で飲み込むように視線を落とした。 その横顔には、言い知れぬ後悔と、底知れない暗い執念のようなものが一瞬だけ浮かんだ気がした。
「……クライヴ様?」 「……さあな。忘れたよ」
彼は顔を上げ、寂しげに笑って誤魔化した。
「ただ、剣では何も守れないと悟った。それだけだ」
(……嘘だ)
絶対に、何か隠している。 剣士だった男が、三百年の時を経て「魔王」と呼ばれるほどの魔導師になったのだ。 そこには、語りたくないほどの壮絶な理由があるはずだ。 でも、彼の拒絶するような雰囲気に、私はそれ以上踏み込むことができなかった。
「とにかく、放っておけばいい。あいつも寝起きで機嫌が悪いだけだ。そのうちまた寝るだろう」
彼はそう言って、無理やり話を終わらせようとした。
その時だった。
ズズズズズ……ッ!!
さっきの警報音とは違う、底冷えするような振動が、足元から這い上がってきた。 床が小刻みに揺れ、シャンデリアがガシャガシャと音を立てる。
「きゃっ!?」 「……チッ。しつこいな」
クライヴ様が不機嫌そうにスプーンを置いた。
ズオオオオオオオオッ!!
遠く北の方角から、空気を震わせるような「咆哮」が聞こえた。 獣の叫び声ではない。もっと原初的な、大地の怒りのような響き。
その声を耳にした瞬間。
ドクンッ!!
「あ……っ!?」
私の右肩に焼けるような激痛が走った。
「が、ぁ……ッ!」 「ルチア!?」
私は椅子から転げ落ち、右肩を押さえてうずくまった。 熱い。痛い。 まるで、魔力を使いすぎて回路が焼き切れるような、あるいは何かを封じ込める反動を一気に受けたような感覚。
(痛い、痛い、熱い……!)
視界が明滅する。 ダイニングルームの風景が歪み、知らない景色が重なる。
――吹雪。視界を遮る白い闇。 ――目の前に迫る、山のように巨大な漆黒の鱗。 ――剣を折られ、膝をつく銀髪の剣士。
『クライヴ、下がって!!』
私の口が、勝手に叫んでいた。 私は前に飛び出し、杖を掲げる。彼を守るために。 全身の血液が魔力に変わるほどの熱量で、私は禁忌の呪文を紡ぐ――。
「いやぁぁぁぁぁっ!!」
自分の悲鳴で、私は我に返った。
「ルチア!! しっかりしろ!!」
気づけば、私は床に倒れ込み、クライヴ様に抱き起こされていた。 彼は顔面蒼白になり、私の右肩に手を当てている。
「どうした!? どこが痛い!? いつの間に攻撃を……!」 「はぁ、はぁ……っ、う、右肩が……熱くて……」
私は脂汗を流しながら、自分の右肩を見た。 外傷はない。けれど、痛みだけが幻影のように残っている。 あの時、彼を守るために全ての魔力を放出した、あの瞬間の熱さが。
「……右肩?」
クライヴ様の手がピタリと止まった。 彼はハッとしたように目を見開いた。
「まさか……共鳴しているのか? あの竜が放つ波動に……かつて奴を封じた『術者』の魂が?」
彼の瞳が激しく揺れている。 目の前にいる「ただの家政婦」が、かつての「相棒」と同じ痛みを感じているという事実に、彼の中で疑念が確信に変わりつつあるようだった。
「(……やはり、成功していたのか?)」
彼が唇の動きだけで何かを呟いた気がしたが、痛みのせいでよく聞き取れなかった。
「……クライヴ、様?」 「……なんでもない。大丈夫だ、すぐに終わらせる」
彼は私の肩を強く抱きしめると、殺気に満ちた目で北の空を睨みつけた。
彼の全身から、どす黒いほどの魔力が溢れ出す。 それはかつて剣士だった彼が、何かを犠牲にして手に入れた、哀しくも強大な力。
「許さんぞ、トカゲ風情が……。 よくも私の大切なものを……二度までも苦しめてくれたな」
二度? 一度目は三百年前。じゃあ、二度目は今? 私は混乱する意識の中で首を傾げたが、彼は答えてはくれない。
「ルチア、ここで待っていろ」
彼は私をソファに優しく寝かせると、立ち上がり、黒いローブを翻した。
「――行ってくる。少しだけ、留守番をしていてくれ」
そう言い残し、彼は転移魔法の光の中に消えた。 かつては剣で守れなかったものを、今度こそ守り抜くために。
あとに残されたのは、右肩の謎の激痛に震える私と、冷めかけたシチューだけ。 私は痛みに耐えながら、ぼんやりと考えた。
(……私、なんであんな映像を見たんだろう)
剣を持ったクライヴ様。彼を守ろうとして前に出た私。 それはまるで、私が「彼女」だった頃の記憶のようで――。
怖い。 それを認めてしまったら、もう二度と、ただの「家政婦のルチア」には戻れない気がしたから。




