5.
その日は、しとしとと降り続いていた雨が上がり、雲間から夕日が差し込み始めた日だった。
ゴーン、ゴーン。
突然、塔全体を揺るがすような重低音が響き渡った。
「きゃっ!? な、なに!?」
私は驚いて皿を落としそうになった。 地震? それとも雷? 慌てふためく私とは対照的に、ソファでまどろんでいたクライヴ様は、ゆっくりと片目を開けただけだった。
「……チッ。うるさいな」
彼は眉間に深い皺を刻み、心底不愉快そうに舌打ちをした。 その動作一つにも、老いなど微塵も感じさせない、研ぎ澄まされた強者の覇気が滲んでいる。
「……結界の警報だ。誰かが正門の呼び鈴を鳴らしたらしい」 「呼び鈴って、今の地響きみたいな音がですか? 敵襲かと思いましたよ」 「虫除けのために音量を最大にしていたんだ。……まったく、せっかく幸せな夢を見ていたというのに」
彼は気だるげに銀髪をかき上げると、指をパチンと鳴らした。 すると、サロンの空中に「映像」が浮かび上がった。 映し出されているのは、塔の入り口だ。そこには、きらびやかな白い鎧に身を包んだ、騎士風の青年が立っていた。
『頼む! 開けてくれ! 王国魔法騎士団長、ギデオンである! 大魔導師クライヴ様に、至急の謁見を願い出る!』
必死に扉を叩く青年。 私は目を丸くした。
「魔法騎士団長……って、国の要人じゃないですか!?」 「ああ、そういえばそんな名前の小僧がいたな。半世紀ほど前に鼻水を垂らしていたガキが、随分と偉くなったものだ」
クライヴ様は興味なさげに欠伸をした。 300年生きている彼にとっては、騎士団長ですら「若造」扱いらしい。
「放っておけ。どうせ『ドラゴンの討伐を手伝え』だの『古代魔法の解読を頼む』だの、くだらない用件に決まっている。 私は今、ルチアとの優雅なひとときで忙しいんだ」 「いや、終わりましたよティータイムは。寝てたじゃないですか(ちなみに今日のおやつはスコーンでした)」
私は呆れてツッコミを入れた。 相手は国一番のエリート騎士だ。無視をして、あとで塔ごと焼き討ちにでもされたら、私の給料(と命)が危ない。
「クライヴ様、出てください。私が応対しますから、着替えて!」 「えぇ……面倒くさい……」 「『えぇ』じゃないです! ほら、シャキッとする!」
私は、ソファに根が生えたように動かない大きな背中を叩き、強引に立たせて玄関ホールへと向かった。
◇
ギギギ、と重厚な扉を開ける。 外には、雨に濡れた騎士団長ギデオン様が立っていた。 彼は扉が開いたことに安堵の表情を浮かべたが、出てきたのがエプロン姿の私だと気づくと、怪訝そうに眉をひそめた。
「……なんだ、貴様は? この塔には大魔導師様がお一人で住まわれているはずだが」 「は、はい。私は新しく雇われました家政婦のルチアと申します」
私が礼儀正しくお辞儀をすると、彼は鼻で笑った。
「家政婦? あの人間嫌いのクライヴ様が、人を雇うなど聞いたことがない。 どうせ、金目当てで忍び込んだこそ泥か、身の程知らずの押しかけ女房だろう」 「っ……」
失礼な人だ。 まあ、あながち「金目当て(借金返済)」は間違っていないけれど。
「どけ、小娘。私は国家の非常事態を伝えに来たのだ。雑用係に構っている暇はない」
彼が乱暴に私を押しのけようと、手を伸ばしてきたその時だった。
「――私の客に、気安く触れるな」
ドォォォォォッ!!
地を這うような低い声と共に、爆発的な魔力の奔流がホールに吹き荒れた。 ギデオン様が「ぐはっ!?」と吹き飛び、無様に尻餅をつく。
螺旋階段の上。 いつの間にか黒いローブを羽織ったクライヴ様が、氷のような冷徹な瞳で見下ろしていた。
「ク、クライヴ様……!」 「ギデオンと言ったか。……貴様のその薄汚い手で、彼女の服を汚したらどうするつもりだ? 王都を消し飛ばして弁償させるぞ」
ひぃっ、と騎士団長が悲鳴を上げる。 私は唖然としてクライヴ様を見上げた。
(……ああ、そうだ)
私は思い出した。 初日のこと。私がこの塔を訪れた一番最初の瞬間、彼が私を「ルチア」だと認識する前に向けた眼差し。 あの氷のような目。
あれが本来の、大魔導師クライヴの姿なのだ。
先ほどまで私のエプロンを握りしめて寝言を言っていた「甘えん坊なクライヴ様」は、私(の皮を被った誰か)の前だけの姿。 他人に対しては、彼はまさしく「怪物」と呼ぶにふさわしい、冷酷な支配者なのだ。
「も、申し訳ありません! 決してそのようなつもりでは……! それより、緊急事態なのです! 北の山脈に封印されし『黒竜』が目覚めかけ――」 「帰れ」
クライヴ様は、話を聞く気すらないようだ。
「竜ごとき、騎士団で処理しろ。私が動くのは、ルチアの指に棘が刺さった時と、ルチアが虫に刺された時だけだ」 「は……? る、ルチア……?」 「そうだ。今の私にとって、国家の存亡よりも、彼女のご機嫌の方が一億倍重要だ。 これ以上、私の大事な時間を邪魔するなら――」
クライヴ様がゆっくりと片手を上げた。 その指先に、バチバチと黒い雷が収束していく。 本気だ。この人、国一番の騎士をここで消し炭にする気だ。
「わ、分かりました! 出直します! どうかお許しをぉぉぉ!」
ギデオン様は脱兎のごとく逃げ出した。 その背中が見えなくなるまでほんの数秒。 静寂が戻ったホールで、クライヴ様は「ふん」と鼻を鳴らし、魔法を霧散させた。
そして、階段を降りて私の前まで来ると――。
シュン……。
効果音が聞こえそうなほど一瞬でオーラを消し、しょんぼりと眉を下げた。
「……怖がらせてすまない、ルチア。 あいつ、君のことを雑用係などと……。君はこの塔の主と言っても過言ではないのに」
「いや、雑用係であってますけど」
彼は心配そうに私の顔を覗き込んだ。 その瞳は、先ほどの冷酷さが嘘のように優しく揺れている。
私は複雑な思いで、彼の整った顔立ちを見つめ返した。
(……なんて皮肉な話なのかしら)
かつて、彼は「勇者」だった。 世界を闇から救い、魔王を討ち倒した希望の象徴だったはずだ。
それなのに、三百年経った今。 彼は黒いローブを纏い、黒い雷を操り、国を守る騎士たちから「恐怖」の対象として見られている。 これではまるで――彼自身が、あの時倒したはずの「魔王」そのものではないか。
世界を救った英雄が、世界から孤立した魔王になるなんて。 笑えない冗談だ。
「……クライヴ様」 「ん? なんだ?」 「……夕食、何がいいですか?」
私は湧き上がる切なさを飲み込んで、努めて明るく尋ねた。 今はまだ、彼に何も聞けない。 どうして勇者であることをやめてしまったのか。
「え? 作ってくれるのか? 怒っていないのか?」 「怒ってませんよ。追い払ってくれてありがとうございます」 「!!」
彼がパァァッと顔を輝かせた。
「シチューがいい! 君の特製シチューが食べたい!」 「はいはい。じゃあ、材料があるか見てきますね」
私は彼に背を向けて、キッチンへと歩き出した。 背中で感じる彼の視線は、相変わらず熱っぽくて、重たい。
――この塔での生活は、甘くて、重くて、そして時々ひどく切ない。 私は知らず知らずのうちに、この「ちぐはぐな関係」に居心地の良さを感じ始めていた。




