4.
3階の廊下での騒動から私たちは1階のサロンで、優雅なティータイムを過ごしていた。
「……美味い」
クライヴ様は、私が焼いたアップルパイを一口食べるたびに、ほう、と幸せそうな息を吐いている。
「砂糖とシナモンのバランスが絶妙だ。パイ生地のサクサク感も素晴らしい。……これは、王宮のシェフでも作れない味だ」 「大げさですね。村で採れた普通のリンゴですよ」 「いいや、君が作ったという事実が、これを至高の供物へと昇華させているんだ」
彼は真顔でそんな恥ずかしい台詞を吐きながら、フォークを動かしている。 その顔があまりに幸せそうなので、私は毒気を抜かれてしまった。
(さっきあんなに取り乱していたのが嘘みたい)
私の向かいに座る彼は、伝説の魔導師とは思えないほど無防備だ。 。
◇
お腹が満たされたせいか、それとも久しぶりの糖分のせいか。 クライヴ様は、サロンのソファで船を漕ぎ始めた。
「……ルチア……」 「はいはい、ここにいますよ」 「行くな……そばに……」 「行きませんから。ちょっとお皿を片付けるだけです」
私が宥めると、彼は安心したように瞼を閉じた。 数分もしないうちに、静かな寝息が聞こえてくる。
「……寝ちゃった」
私は洗った皿を拭きながら、ソファで眠る彼を眺めた。 普段は強大な魔力で威圧感を放っている彼も、寝顔だけは穏やかだ。
私はそっと近づき、まじまじと彼の顔を観察した。
(こうして近くで見ると……やっぱり、しっかり「大人の男性」なのよね)
伝説の不老の魔導師。 その肉体は、最も魔力が安定すると言われる40代で成長が止まっているらしい。 とはいえ、溢れ出る魔力と整った顔立ちのおかげで、肌には張りがあるし、白髪もない。パッと見は30代半ばかばくらいの、「素敵な紳士」に見える。
目尻に刻まれた笑い皺や、眉間の深い皺。 広い肩幅に、血管の浮いた大きな手。 同年代の村の男の子たちにはない、圧倒的な「大人の色気」と「威厳」がそこにはあった。
(悔しいけど……顔だけはめちゃくちゃ好みなのよね)
中身があんなに甘えん坊でなければ、間違いなく理想のタイプだ。 こんな素敵な「イケオジ」に溺愛されるなんて、本来なら夢のような話なのだが――現実は甘くない。
私が彼の顔にかかった銀髪を払ってあげようとした、その時。
「……エレナ……」
彼の口から、悲痛な呟きが漏れた。
「……っ!」
その名前を聞いた瞬間。 心臓を鷲掴みにされたような衝撃が走った。
エレナ。 知らない名前だ。聞いたこともないはずだ。 なのに、なぜ? その名前を耳にしただけで、胸の痣が焼け付くように痛み、涙が出そうになるのは。
「……すまない……俺を、許してくれ……」 「……したくない……」
彼は夢の中で、誰かに謝り続けている。 その手は空を掴むように彷徨い、私のエプロンの裾を見つけると、縋り付くように強く握りしめた。
「エレナ……愛して、いる……」
その言葉は、私に向けられたものではない。 私の知らない「エレナ」向けられた愛の言葉。
私はエプロンを掴む彼の手を、振りほどくことができなかった。 ただ、胸の痛みに耐えながら、複雑な気持ちで彼を見下ろすことしかできない。
「……バカな人」
私、ルチアだよ。 エレナじゃないよ。 そう言いたいのに、喉が詰まる。
(なんで私、こんなにモヤモヤしてるんだろ)
彼が私を通して、死んだ誰かを見ていることなんて最初から分かっていたはずだ。 破格の給金をもらって、彼の「ごっこ遊び」に付き合っているだけ。 そう割り切っているはずなのに、彼の口から出る愛の言葉が私に向けられたものではないという事実が、妙に面白くない。
窓の外では、いつの間にか雨が降り始めていた。 静かな雨音だけが響く部屋で、私は小さくため息をついた。
初対面の、変人で、重たくて、素敵な大人の見た目をしたこの雇い主。 放っておけない人だとは思うけれど――やっぱり、この「代役」みたいな扱いは、正直ちょっと複雑だ。




