3.
翌朝。 私が目を覚ましたのは、窓ガラスをコツコツと叩く音のせいだった。
「んぅ……? まだ朝の6時よ……。誰……?」
眠い目をこすりながら、私はベッドから起き上がった。 ここは宿屋の2階だ。窓の外に人がいるはずがない。鳥か、あるいは風で枝が当たったのか。 そう思いながらカーテンを開けた私は――心臓が止まるかと思った。
「おはよう、ルチア。よく眠れたか?」
窓の外の空中に、大魔導師クライヴ様が浮いていた。 朝日を背に銀髪を輝かせ、爽やかな笑顔を浮かべている。 絵画のように美しい光景だが、状況だけ見れば完全にホラーである。
「きゃあああああ!!?」 「ル、ルチア!? どうした、敵襲か!?」
私の悲鳴に慌てて、彼が窓を開けて侵入してくる。 私は布団を頭から被って叫んだ。
「不審者はあなたです! なんで2階の窓の外にいるんですか!」 「迎えに来たんだ。8時まで待ちきれなくて、5時から待機していた」 「3時間も浮いてたんですか!? 怖いわ!」
やはりこの男、常識のネジが300本くらい飛んでいる。
◇
結局、私は着替え終わるや否や、クライヴ様に抱えられて(文字通りお姫様抱っこで)転移魔法を使われた。 一瞬で塔のホールに到着する。
私は彼の手を振りほどき、エプロンの紐をキリリと締めた。 気を取り直して、仕事の時間だ。
「今日は3階の廊下と図書室を掃除します。クライヴ様は邪魔にならないところで……そうですね、この本でも読んでいてください」
私が適当な魔導書を渡すと、彼は「君の言いつけなら」と嬉しそうに椅子に座った。 本当に、私が視界の中にいればそれで満足らしい。 時折、背中に熱っぽい視線を感じるけれど、私はあえて無視をして掃除に没頭した。
(変な人だけど……悪い人じゃないのよね)
彼を見ていると、なぜか私の胸の奥がキュッと締め付けられるような、切ない気持ちになる。 初対面のはずなのに、彼が愛おしくてたまらないような――そんな錯覚を振り払うように、私は3階の奥へと進んだ。
◇
廊下の突き当たりに、重厚な扉があった。 他の部屋とは違い、禍々しいほどの封印魔法が施されている……ように見えたが、よく見ると経年劣化で鍵の部分が錆びつき、少しだけ隙間が空いている。
「あれ? ここ、開いてる」
掃除用具入れだろうか。それとも物置? 隙間から漏れ出る空気は、ひどく埃っぽくて、カビ臭い。
「うわぁ……汚そう」
私の「家政婦魂」がピクリと反応した。 この塔の主は引きこもりだ。きっとこの部屋も数百年放置されて、ゴミ屋敷状態になっているに違いない。 見て見ぬ振りはできない。
「ちょっと換気だけでもしておきましょうか」
私は雑巾を片手に、その重いドアノブに手を伸ばした。
ドクン。
指先がノブに触れようとした瞬間、心臓が大きく跳ねた。 なんだろう、この感覚。 嫌な予感がするような、でも、懐かしいような。 開けてはいけないパンドラの箱のような気がするのに、魂が「そこを開けろ」と叫んでいるような――。
不思議な引力に導かれるように、私がドアノブを握りしめた、その時だった。
「ルチアッ!!!」
背後から、悲鳴のような絶叫が轟いた。
ヒュンッ!
風を切る音と共に、私の視界が反転する。 ガシッ! と強い力で後ろから抱きすくめられ、私はドアから強引に引き剥がされた。
「きゃっ!?」 「ダメだ!! そこはダメだ、絶対に入ってはいけない!!」
耳元で怒鳴る声は、震えていた。 見上げると、顔面蒼白になったクライヴ様が、まるで世界の終わりを見たような顔で私を見下ろしていた。 呼吸は荒く、額には脂汗が滲んでいる。
「ク、クライヴ様……? どうしたんですか、急に」 「はぁ、はぁ……! 驚かせてすまない……だ、だが、その部屋は……ッ」
彼は私の肩を掴むと、守るように自分の背後に隠した。そして、開きかけていたドアを、魔法で「バンッ!」と乱暴に閉め、さらに十重二十重に結界を張り直した。 バチバチバチ! と音がして、ドアは完全に封鎖される。
「……あーあ。鍵、直っちゃいましたね」
私が呑気に呟くと、彼は膝から崩れ落ちるようにして座り込んだ。
「心臓が止まるかと思った……。頼む、ルチア。その部屋だけは……その部屋だけは、絶対に近づかないでくれ」 「そんなに大事な部屋なんですか?」 「……そうだ。そこには……その……」
彼は視線を泳がせ、言い訳を探すように口ごもった。
「そこは……『開かずの間』だ。 過去に封印した、凶悪な呪いの道具や、見るだけで精神が崩壊する闇の書物が収められているんだ。魔力のない君が入れば、呪いで全身に毛が生えて、カエルになってしまうかもしれない!」
「……なんですかそのバカみたいな嘘は」
私はジト目で彼を見下ろした。 まあ、魔導師の塔なら「危険な部屋」の一つや二つあるだろう。 もしかしたら、見られたくない恥ずかしい趣味のコレクション(私のポエム集とか)でもあるのかもしれない。
「分かりました。カエルにはなりたくないので、掃除は諦めます」 「あ、ああ。そうしてくれ。頼む、本当に頼む……」
彼は私の手を取り、縋るように額を押し付けてきた。 その手は氷のように冷たく、まだ小刻みに震えている。
(……そんなに怖がらなくても)
ただ部屋を開けようとしただけで、この狼狽ぶりだ。 私は小さくため息をつくと、空いている方の手を伸ばし――彼の頭(サラサラの銀髪)を、ポンポンと優しく撫でた。
「はいはい、分かりましたよ。もう近づきませんから、落ち着いてくださいねー」 「……あ?」
クライヴ様がキョトンとして顔を上げる。 私はハッとして、自分の手を見た。
(しまった、つい手癖が!)
実家には、雷が鳴るたびに私の布団に潜り込んでくる甘えん坊の弟がいる。 震えている生き物を見ると、弟をあやす時の癖で、無意識に頭を撫でてしまうのだ。
相手は世界最強の大魔導師様で、しかも300歳以上の年上(推定)なのに。 不敬罪で消される!?
「ご、ごめんなさい! つい実家の弟にするみたいに……!」
私が慌てて手を引っ込めようとすると、ガシッ! と手首を掴まれた。
「……やめるな」 「へ?」 「悪くない。……むしろ、落ち着く」
彼は私の手を再び自分の頭に乗せると、気持ちよさそうに目を細めた。 まるで、飼い主に撫でられる大型犬のようだ。
「……ルチアの手は、温かいな」 「は、はあ……。どういたしまして?」
私は苦笑しながら、しばらく彼の銀髪を撫でてあげた。
「ほら、落ち着いたらおやつの時間にしますよ。今日はアップルパイを焼きましたから」 「……アップルパイ」
甘いものの名前に、彼がピクリと耳(あるような気がする)を動かした。
「……食べる」 「はい、いい子ですねー」
私は彼の手を引いて、3階の廊下を後にした。
去り際。 私は一度だけ、あの重厚な扉を振り返った。 厳重に封印されたその奥から、何か静かな「呼び声」が聞こえた気がしたけれど――気のせいだと思うことにした。




