2.
「――あの。魔導師様?」 「クライヴだ。様はいらない。……私のことは、昔のように名前で呼んでくれ」
「はあ、(昔?あったこともないんですけど…)クライヴ様。ちょっと、そこ退いていただけますか? 邪魔です」
私は腰に手を当てて、目の前の美貌の男を見上げた。 採用即監禁宣言から数時間。 私はさっそく、ホールの床磨きに取り掛かっていた。
しかし、問題が一つ。 この塔の主であるクライヴ様が、私の後ろを金魚のフンのようについて回ってくるのだ。 まるで、少しでも目を離したら私が煙のように消えてしまうとでも思っているような密着ぶりである。
「手伝おう。これでも魔法の腕には自信がある」 「いえ、結構です。さっき『頑固な油汚れを消し去る』と言って、床板ごと消滅させようとしたのを私は忘れていませんよ」
床に空いた焦げ跡を指差すと、クライヴ様はバツが悪そうに視線を逸らした。 私はため息をつき、再び雑巾がけに戻る。
(それにしても……変な人だわ)
私はチラリと彼を盗み見た。 彼は部屋の隅の椅子に座り、じっと私を見つめている。その紫色の瞳には、とろけるような甘さと、深い悲しみが入り混じっていた。
おかしい。絶対におかしい。 私たちは今日が初対面のはずだ。 なのに、なぜ彼はこんなにも私に優しいのだろう? 国が買えるほどの財宝をポンと渡そうとしたり、私が転びそうになっただけで顔面蒼白になって支えようとしたり。
(私のことを誰かと間違えてる? ……まさか、死んだ恋人の生き写しとか?)
そう考えると、背筋が寒くなるのと同時に、彼の捨てられた子犬のような目が気になってしまう。 最強の魔導師と呼ばれる男が、どうしてこんなに寂しそうな顔をするのか。 その理由が分からないまま、私は黙々と手を動かし続けた。
◇
日が暮れ、森が深い闇に包まれる頃。 一通りの掃除を終えた私は、エプロンを外してパンパンと埃を払った。
「ふぅ、今日はこれくらいにしておきましょう」 「……もう終わりか? まだ夜は長いぞ」 「労働基準法ってご存知ですか? 働きすぎは美容の敵です」
私は鞄を肩にかけ、出口へと向かう。
「では、私はこれで失礼します。また明日」 「は?」
クライヴ様がポカンと口を開けた。
「失礼しますとは……どこへ行くつもりだ?」 「どこって、麓の村の宿屋ですけど。来る時に目星をつけておいたんです」 「なっ……!?」
彼は椅子から飛び上がり、私の前に立ち塞がった。
「待て! 『帰さない』と言ったはずだ! この塔には客室がたくさんある。ベッドも最高級だ。なぜわざわざ村へ行く!?」 「なぜって……」
私はジト目で彼を見上げた。
「未婚の男女が、人里離れた塔で二人きりで夜を明かすなんて、ありえないからです!」 「ぐっ……」 「私はこれでも男爵令嬢です。変な噂が立ったらお嫁に行けなくなります。それとも、クライヴ様は私の純潔な評判に泥を塗るおつもりで?」
私が正論(と偏見)をぶつけると、クライヴ様はたじろいだ。 彼の時代錯誤なほどの真面目さと、私への遠慮が見え隠れする。
「そ、それは……君の名誉を傷つけるつもりはない。しかし、夜道は危険だ! この森には魔獣も出るし、村の宿屋などセキュリティが甘すぎる! 蚤だっているかもしれない!」 「蚤くらい潰して寝ますから大丈夫です」 「ダメだ!!」
彼は必死の形相で叫んだ。 どうやら、私が自分の視界から消えることが耐えられないらしい。 かといって、ここで寝泊まりするのは私の理性が拒否している。
睨み合いが数秒続いた後。 クライヴ様が、苦渋の決断をしたように深く息を吐いた。
「……分かった。君の貞操観念は尊重しよう」 「ご理解いただけて何よりです。では歩いて……」 「だが、一人では帰さん。私が送る」
彼が指をパチンと鳴らした。 その瞬間、視界が歪んだ。
「へ?」
気づけば、私は見知らぬ建物の前に立っていた。 賑やかな話し声、料理の匂い。 見上げれば『三日月亭』という看板――私が泊まろうと思っていた、麓の村の宿屋だ。
「て、転移魔法……!?」 「毎日、私が送迎する。朝は8時に迎えに来る。それなら文句はないな?」
クライヴ様は私の返事も待たず、宿屋の中へとズカズカ入っていった。 そしてカウンターの主人に金貨の袋をドン! と叩きつける。
「一番いい部屋を。それと、この宿を今から私の結界で覆う。虫一匹通さん」 「ひぇっ!? だ、大魔導師様!?」 「ルチアの部屋の周りには二重に張る。お前たちも、彼女に指一本触れたら……分かっているな?」
宿の主人が泡を吹いて気絶しそうな顔をしている。 私は慌ててクライヴ様の袖を引っ張った。
「やめてください! 営業妨害です!」 「何を言う。君の安全確保は国家防衛より優先度が高い」 「重い! 発想がいちいち重いです!」
結局、私が宿の一室(もちろん最高級室)に押し込められるまで、彼は帰ろうとしなかった。
「……ルチア」
別れ際、部屋のドアノブを握りながら、彼は名残惜しそうに私を見た。
「本当に、大丈夫か? 怖くないか? 一人で眠れるか? やはり私がドアの前で立っていようか?」 「結構です! さっさと帰って寝てください!」
バタン! と扉を閉める。 扉の向こうで深いため息をつく気配がして、ようやく転移魔法の気配が遠ざかっていった。
「……はぁ。どっと疲れた」
私はベッドに倒れ込んだ。 窓の外には、遠く森の奥に見える塔の明かりが小さく光っている。
「なんなのよ、あの人……」
初対面の家政婦に、あそこまで尽くす理由が分からない。 ただの親切? それとも、やっぱり誰かの代わり? もしそうだとしたら、少しだけモヤモヤする。
「ま、いいわ。お給料が良いのは事実だし」
私は考えるのをやめて、布団を被った。 明日もまた、あの塔へ「通勤」して、あの重すぎる魔導師様の相手をしなきゃいけないんだから。
――この時の私はまだ知らなかった。 彼が毎朝の迎えの時間を待ちきれず、夜明け前から私の部屋の窓の外(空中)で待機することになるなんて。 そして、この「通勤生活」が、村中で『魔導師様の溺愛』として伝説になり始めることを。




