二.
「そこ登っちゃいけないよ!」
「なんでだよ!」
「ダメってお母さんたちに言われてるでしょ!鬼に食べられちゃうわよ」
「チビのくせに知ったかぶりすんな!あんなの嘘に決まってるだろ」
「嘘じゃないよ。本当だもん!」
小さな洋服の裾を掴みながら、少女が甲高い声を出している。泥を跳ね飛ばしながら木の下に駆け寄り、今にも泣きそうになりながら叫び続けた。
「だからダメだって言ってるでしょ!」
そんな少女を尻目に、男の子たちは無視を決め込んで木の枝にぶら下がっている。
「もう知らないわ。お母さんたちに言っちゃうから!」
「待てよ、ハンナ!」
その中の一人が慌てて呼び止めたのだが、彼女はすでに坂を下り始めていた。崖の下の家に戻り、母親に言いつけるようだ。
ハンナは今年九つになる、小柄で無邪気な少女だった。五人兄妹の末っ子ということもあって、充分過ぎるほど元気に育った。木でできた小さな料理道具でおままごとをするよりも、木の枝を振り回して追いかけっこをすることが好きな女の子だった。そしてお母さんやお兄さんの言うことは全く聞かずに、いつも男の子たちと一緒にわんぱくをやる女の子であった。
そんな彼女でもこの村の掟はしっかりと守っていた。これにまつわる昔話をとても恐れていて、少しでも外れたことをする友達を見つけたらひどく怒ってしまう。いつもならあの男の子たちとはもっと弾けて遊んでいて、逆に彼らがお転婆なハンナのことを注意するくらいなのだ。
そこまで彼女がその話を怖がっているのには確かな理由がある。それは彼女の父親だ。彼女の父親ハンセンは、ハンナの顔も見ない内に死んでしまった。死んでしまったというより、いなくなってしまったの方が正しいかもしれない。ハンセンは家族思いで、信心深く優しい男であった。隣人とも笑顔で接し、毎週日曜の礼拝を欠かしたことのない真面目さを持っていた。一方、ハンナの父親だけあって、悪戯好きで無鉄砲な面もあった。
彼はこの村の言い伝えを全く信じていなかった。高いところに上るといきなり姿がなくなるなんて有り得ないし、想像できない。そんなことを信じる方が愚かだ。彼はそう思っていた。しかしもしものことがあったら家族が困ってしまうと思い、わざわざ試そうとは思わなかったらしい。
しかしある時、通りすがりの子どもの帽子が風で舞い上がってしまったとき、彼の体はすでに動いてしまっていた。
つむじ風で打ち上げられた、その帽子は空を高く舞い、広場の真ん中にある時計台のてっぺんに引っかかった。ハンセンは咄嗟に動いていた。その子どもが止めるのも聞かずに、上へ上へと登った。そして帽子のつばに手をかけた途端に…、彼は消えた。
一瞬白い光がパッと爆発し、眩しさで目を閉じてしまった。そして目を開くと、帽子だけが足元に落ちていて、ハンセンの姿はすでになくなっていた。帽子の持ち主はそう言った。あまりにも少なすぎる情報に村人たちの恐怖は煽られる一方だった。
ハンナが五つになった日、彼女の母親と兄たちが、この村の掟と一緒にそれを教えた。「きっと鬼に食べられてしまったんだわ」。会ったことのない父親を思い、悲しさで泣き出してしまった。その日から彼女は高いところを怖がるようになった。小鳥が低い木の枝に止まっていると、背伸びをして追い払おうとする。学校の階段を上ることも躊躇してしまう。
そんなハンナを安心させようと、家族は手を尽くしたが、一度語ってしまったことを撤回することはできなかった。