過去への手がかり
晴朗は昨晩見たという夢、深夜の海岸近くの森で、着物姿の女性に追いかけられた。という夢を、保憲に話した。
「なるほど……。その女性に心当たりは?」
「多分ない」
「ふうん……、だったら、誰かの負の念を無意識に受け取ってしまっただけか、あるいは……」
「でも、あまりいい印象じゃなかったから、久々に『夢違え』しといた」
「吉備真備が詠んだ和歌だったか。そういえばそんなのもあったな」
悪夢を見た時に唱えるおまじない『夢違え』
あらちをの かるやのさきに たつしかも
ちがへをすれば ちがふとぞきく
その和歌を吉備真備が詠んだとされる。奈良時代に実在し、他人の夢を盗んで大出世を果たしたという逸話も残る学者だ。
「……まぁ、“昔”ならまだしも、そこまで過敏にならなくてもいいんじゃないか?」
「うん……。そう、なんだが……」
「他にも何か、気になるところでもあるのか?」
「……夢の中で……」
二人の会話の途中、再び研究室の扉が開かれた。
同時に視線を向けると、片側に一人、反対側に二人、計三人の若い女学生を連れた男性が入ってきた。
40代前半に見える風貌。息子と同じ髪色に長身、若々しい印象を与える顔立ちをしている。グレーのスーツを華麗に着こなし、紳士的で穏やかな印象は、実年齢よりもずっと若く見せている。
しかしその穏やかそうな顔は、焦りと困惑の表情に歪んでしまっている。
「ただゆぴっぴの部屋到着〜!」
「ねぇただゆぴっぴ〜、また怖い話聞かせて!」
「……ただゆぴっぴ……??」
女学生が言った、その男性のあだ名らしき珍妙な単語に、晴朗と保憲のひどく困惑したセリフが重なった。
『ただゆぴっぴ』と呼ばれたその男性。
名を『賀茂忠行』この研究室の主であり、保憲の父親である。
「うちらで頑張ってデコった兎の看板も飾ってくれたんだ! ありがとう〜!」
「わかった、わかったから、離れなさい」
遠慮なく腕を組んでくる女学生に、極力触れないよう腕を浮かせているが、あまり意味を為していない。
たじろいでいる忠行が保憲と晴朗の存在に気づくと、ホッとしたような、それでいて助けを求めるような目線を二人に向けた。
「あぁ、お前たち。来ていたのか」
「お、疲れさまで、ございます……先生……」
「保憲、課題はどうだ」
「は、はい。先ほど、メールをお送りしました」
「そうか、後で確認しよう」
三人が会話している最中、腕を組みながらも不機嫌そうに、むすっとした顔をしている女学生の刺すような視線が、晴朗と保憲を襲う。
「あ〜……、俺たちはそろそろ行くか」
「ま、お、お前たち……!」
「……先生。お先に失礼いたします」
居た堪れなくなった二人がいそいそと帰り支度をすると、「置いていくな」と言わんばかりに忠行は焦っている。しかし二人は見て見ぬふりをして、足早に研究室を後にした。
晴朗が後ろ手で扉を閉めると、二人は揃って片手で顔を覆いながら、肩を震わせ声を押し殺しながら笑った。
「ただゆぴっぴ……」
「あの賀茂忠行に向かって……ただゆぴっぴ、とは……」
「“昔”の父上じゃあ……ふ……考えられないな……」
扉を隔てた向こう側では、楽しく談笑する女学生の笑い声が聞こえてくる。
二人はひとしきり笑った後、帰路に着くため旧館を後にした。
「この後どうする?」
「……図書館に行く。どうにも昨晩見た夢が気になる」
「心当たりはないんだろ?」
「”現在“はな。……ただ……」
「“過去”は、まだ分からない。……ってことか」
「そう。それともう一つ……」
正門へと続くメインストリートに差し掛かったところで、晴朗の足は正門ではなく、図書館へと向いた。
「夢の中で、俺は『白い狩衣』を着ていた」
夢で晴朗は、必死に森の中を走っていた。その時にチラチラと視界の隅に見え隠れしていた腕には、括り紐が通されている袖口も一緒に見えていた。
平安時代などで主に狩猟をするときに着用されていたとされる『狩衣』を、晴朗は身につけていたのだという。
「……なるほど。よし、分かった。俺も付き合おう」
「付き合うって……、家庭教師のバイトはいいのか?」
「今日は無いから問題ない。それに俺と違って、お前のは探すの大変だろ?」
「……お付き合いどうも」
こうして二人は図書館に向かった。
吉備真備さん、賀茂忠行・保憲親子の祖先とされており、奈良時代に遣唐使として阿倍仲麻呂(こちらは晴明の祖先と言われているが本当かどうかは不明)とともに唐へ渡り、暦道や天文、漏刻の技術を持ち帰ってきた「陰陽道の祖」としても知られている。
なお阿倍仲麻呂は「江談抄」と言う説話集の中で、日本に帰ってくることができず、鬼になるという中々ぶっ飛んだエピソードが残っている。
鬼を祓うことで有名になった晴明の祖先が異国の地で鬼になるという。おもしれー話である。