ごめん、無理
「悪いね〜。持って来てもらっちゃって」
「これくらい、お安いご用です」
天文台を上がると、一人の男が待っていた。
「あれ? 君、陰陽寮の人?」
「いえ、私は大舎人の安倍晴明と申します」
「あぁ、ご丁寧にどうも、私は天文博士兼陰陽允の中原善益だよ。まぁよろしく」
天文博士、中原善益殿。
後に俺の上司になるお方であり、野盗に寝込みを襲われて負傷することになる。ちょっと不憫なお方だ。
確かこの時は40代前半、具合が悪いんじゃないかと心配になるくらい、青白い肌に細っこい体格をしていて、どこか幸薄そうなお顔立ちをしている。そして俺が言うのもなんだが……変人だ。
「足元に置いておいたの忘れててさ、誤って蹴っ飛ばしちゃったんだよねぇ〜」
「……お怪我がなくて何よりです」
「ただでさえ人手不足なのに、武兼殿が陰陽頭をご勇退されるっていうから……もう手が回らなくて大変だよ〜」
武兼殿というのは、保憲の前に陰陽頭を担っていたお方であり、後に陰陽博士となる文道光殿のお父上にあたる。
「それで次の陰陽頭は誰になるかで、ま〜た一悶着あったし……。別に優秀であれば誰だっていいのにね〜」
「はぁ……」
「息子を立てたい忠行殿の思惑はともかく……、武兼殿も、助の惟香殿も、次の陰陽頭に保憲君を推薦しているんだから大人しく認めればいいのにさ〜。『まだ新参だから』〜とか、自分がなれないからってあーだこーだ文句言って……。あんな往生際の悪い老人にはなりたくないよね〜。……あ、私がこんなこと言っていたのは内密にしといてよ。以前もついポロッと本音漏らしちゃってしばらくグチグチ言われたし……、それにもし渾天儀を落として破損させたのが露見したらま〜た怒られちゃうからさ……。直して誤魔化せればいいんだけど……」
「……はぁ……」
善益殿は、俺が持ってきた渾天儀の部品を組み立て直しながら、聞いてもいない陰陽寮の内情をペラペラと話し始めた。
俺はこの時に初めて、陰陽寮の内情を知ったのだが……。
「……ちなみに……、善益殿は、誰を推薦したのですか?」
「私? もちろん保憲君だよ〜。彼が優秀であるのは間違いないし、彼だったら、何かやらかしちゃったとしても、ある程度なら許してくれそうだし!」
「……」
この時代に、ここまで向上心が無い人物というのも珍しい。
そして思ったより苦労してそうだな……。と、内心保憲にも同情してしまった。
けれども、今このタイミングで天文博士に出会えたのも何かの縁。
まだ神様仏様は、俺を見捨ててはいなかったんだ。
「善益殿」
「ん〜? ……お、なんとか直せそう……?」
俺は天文観察そっちのけで、渾天儀の修復に勤しんでいる善益殿の対面に座り直した。
「一つ、折り入ってご相談したいことがあるのですが……」
「え、何? 突然……」
畏まった態度を見せると、善益殿は少し引いたような目線で俺をみてきた。そりゃ初対面の男が、いきなり真面目な表情で頭下げてきたら誰だってビビる。けれども俺には、そんなことを気にしている余裕は無かった。
「実は私、陰陽寮への異動を考えておりまして……」
「陰陽寮に? それは、また……、物好きだね〜」
「そこで私を、貴方様の弟子にしていただけないでしょうか……!」
これが最後のチャンス。
俺は決死の覚悟で、深く頭を下げた。
「ごめん、無理」
「えっ……」
だが俺の願いも虚しく、ここでもあえなく一蹴されてしまった。
この時の俺は、本当に情けない顔をしていたのかもしれない。
善益殿は困ったように頬を軽く掻きながら、釈明を始めた。
「勘弁してよ。ただでさえ私、数合わせで天文博士やってるだけなんだから」
「数合わせ……!? そんな、理由で……?」
どうやら陰陽寮は、想定以上の人員不足に陥っているらしい。
大舎人なんて掃いて捨てるほどいるというのに……、所属している役所が違うだけで、こうも差が出るものなのか。
「誰もやりたがらないんだよ。地味だし……、毎晩毎晩代わり映えしない夜空見上げるだけでさ、首は痛くなるわ、腰も痛くなるわ……。雨が降った日と蝕が重なった日にはもう……。見えないのに蝕有りか無しかの報告をしなくちゃいけない……。面倒くさいったらないんだから」
「……」
マジかよ。
と、俺はこの時思った。
仮にも陰陽寮は国家の中枢を担う役所。
国にとって大事な催しがある時は、まずは陰陽師の占いで、やるやらないを決定する。
日時の選定も陰陽師の占いで決まるし、寺を建立する場所も、かつての京、長岡京から遷都する時にこの場所を決めたのも、全て陰陽師による占いだ。
陰陽師がいなければ、国は機能しなくなる。
そんな大事な場所の、大事な役職を、『数合わせでやってるだけ』だなんて……。
どんだけ人気がなくて過酷な労働環境なんだと、この時は思った。
「……ていうか君、賀茂家に居候しているんじゃなかったっけ?」
「! なんでそれを……?」
「いつだか前に、保憲君が『晴明が陰陽寮に来てくれれば……』って言ってたのを思い出してね。聞いた時は誰だろう。って思ったけど……名前を聞いて思い出したよ。君のことだったか」
「……」
どんだけ人気がなくて過酷な労働環境なんだ。と、思ったと同時に、こうも思った。
『俺だったら行ける』……と。
子どもの頃から有り余るくらいにあった体力と、そんじょそこらじゃへこたれない根性が、俺にはある。
保憲も、忠行様も、そしてあの時、天文の人員不足を教えてくれた保遠も、そのことを理解していたから『さっさと気づけ』とばかりに、示してくれたのだろう。
「君には私より、より良い適任がいると思うけどな」
善益殿の仰る通りだ。
変な意地も、余計な見栄を張る必要なんて、最初から無かった。
「とにかく、弟子は勘弁して。他を当たってください」
そう言って善益殿は、どうにかして修復させた、少々不恰好な渾天儀を持って天文台を降りて行った。
一人残された俺は、どこか晴々とした気持ちのまま、再び夜空を見上げた。
蝕=日食、月蝕のこと。
明日3月3日の夜に皆既月食があるそうですね。19時ごろから欠け始め、20:30ごろには月全体が太陽の影に入るそうです。明日は生憎の雨模様になる地域が多そうですが、時間に余裕があって月が見えそうな方は、陰陽寮の天文生になった気分で観測してみるのも一興ですね。




