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第1幕・2 ベクターズカンパニーにて

 東を向いて空を仰げば、ポツンと雲の塊が消える事なく浮いている。

 真下で見れば、それがいかに巨大であることがよく分かる。雲は辺り一帯を影で覆ってしまい、大地は雲の隙間から僅かに漏れてくる日光だけを頼りに、低木や雑草が育っているが、森は無い。そんな地帯では当然作物も育ちにくいので人々の生活も成り立たず、結果そこは手付かずの自然のままだ。

 大地に日光を遮る巨大な雲塊の上に、饅頭型の土塊が乗っている。

 ロックリバーは、そういう島にある街である。


 饅頭型の斜面に黄土色や灰色のレンガの家屋が密集して、道は細い坂道と階段が入り組んでいる。田舎の昔から変わらない、素朴でくすんだ色合いの合間を行くのは、懐かしさを感じる風情がある。丘の上の小さな発電所では、街中の人々の生活を補うほどの十分な電気を生産することができないので、主な灯りといえばランプやロウソクである。軒先にある灯籠や提灯、行灯が古さを際立たせている。所々にある薮や林は、浮島固有の珍しい植物で埋まっている。

 斜面の下は平に均され、東西に伸びる繁華街に築かれたアゼリア通りがある。幅の広い石畳の道の両脇には雑貨店、飲食店、市場、屋台があり、沢山の人々が行き交い賑わっている。横道に入れば小さな店がいくつもある。


 アゼリア通りを西に行くと、赤い煉瓦作りの建物が二つある。


 一つは駅舎。

 ロックリバーに人が行き来するための通常の交通手段は、ブルートロッコという、青い線が入った車両がトレードマークのトロッコ列車である。線路がいらない工夫がされていて、空と大地を結んでいる。ただ、線路が必要ないとはいえ離着陸時の滑走は必要なので、広い道が改札口を潜った先にある。


 そして駅舎の隣にある建物。これがベクターズカンパニーの支局だ。

 ここには空を走る自転車だけでなく、空陸両用の自動車もある。そのためある程度の道幅があり、且つ人々が無断で侵入しない道など、ロックリバーでは簡単に作ることはできない。そこで利用したのがブルートロッコだった。その道は大型配達専用の貨物車の発着にも、封書回収便の離着陸にも都合がよかった。エディが乗る自転車……ベクターズカンパニーの特製空色三輪自転車が発着するときにもとても都合がいい。


 そんなわけで、ロックリバー支局は空の駅に隣接して建っている。


 支社の名には「空の駅支局」という、分かり易い名がついている。


    ※    ※


「ま、またかね! またやっちゃったのかね! こ、こ、この……このヘナチョコー!」


 その言葉こそヘナチョコだと、エディは思った。子供じゃあるまいし。

 目の前にいるのは、エディが所属するベクターズカンパニー空の駅支局配送部一課の課長、マイク・マーリー、五十五歳。見事な卵型の体型をしている、格子ハゲの小太りおじさんだ。眉は無く彫りの深い大きな目、刻まれた幾つもの皺に、高い鷲鼻の下にはハの字の髭がある。苦悶と憤怒を混ぜたような複雑な表情は、紛れもない般若だ。しかも言葉遣いと顔が一致していない部分が彼の一番恐ろしいところで、子供っぽい言い方は、般若の顔と釣り合いが取れておらず不気味だった。


「先々週にも修理に出したのに! どうしてすぐ壊すかなぁっ? ねえ、何で? 何で?」


 ぷう、と頬を膨らませてマイクは怒りを露にした。頬を膨らますことにマイク自身は何とも思っていないらしいが、般若の形相がいっそう強調されて恐ろしく、エディは目を背けたくなる。


「でも、課長、」顔を引き攣らせてエディは答えようとするが、

「でも、じゃないよぉ!」


 くわっと目を見開いた般若がさらに顔を近づけてくる。

 あまりにも恐ろしいので、ちょっと泣きたい気分になった。



 今より時間は遡り、およそ二十分前のこと。

 エディはロックリバーの離着陸専用道路で着地に失敗した。

 しかも、自転車は半壊。その壊れた自転車は今、空の駅支局の車庫に置いてある。

 自転車の運転は難しいが、エディは持ち前の運動神経で今までやってこれた……だが、万事無傷ではない。入社したての頃は練習中にしょっちゅう転んでいたし、空色自転車に乗れるようになってからも、離着陸に失敗することは度々あった。


 ただ、自転車が半壊するほどの大失敗というのは、これで三度目だった。


 一度目は乗りたての四月半ば、慣れていなかったときに石につまづいた。


 二度目は五月になったばかりに、運転に慣れはじめて気が抜けた時期に。


 滑空する自転車は、三輪であろうと強度は低いし、天候によっては、いつも無事に離着陸するとも限らない。三日に一度の点検は義務化されているが、それでも壊れるときは壊れるのだ。

 今回は、自転車の支柱かどこかに、歪みができていたのかもしれない。正確な原因は判らなかった。離着陸専用道路にタイヤが着いた瞬間、三輪自転車は激しい音をたてて着地した勢いのまま暴走し、百メートルほど走った末、右の前輪が外れ車体が凹み、後輪がパンクしてやっと止まった。


 エディは自転車から投げ飛ばされ……やっと起き上がって見てみれば、自転車は哀れな姿になっていた。モーゼフの言葉を思い出しながら、やっぱり当たったじゃないか、と駅員が心配そうにかける声も聞かずに、頬の傷を触りながら溜め息を吐いた。



「オメーはドジだなあ」


 と言ったのは、入り口近くのデスクの上で寝そべっていた、猫。

 猫が、二人を見ながら声をかけた。


「だがよ、てぇした傷じゃなくて、よかったじゃあねぇか」

「そうだよぅ、お客様のお荷物を破損させたらウチの責任なんだぞ」

「まぁエディも小さな傷だったんでぇ、大事に至らなくてなによりだ」


 猫は渋い声でエディを労う。

 彼は新人教育の補佐をしている猫で、名はガット。見た目はただの茶トラデブ猫である。皮下脂肪のたっぷりついた体は、デスクの上では重力に従ってだらしなく広がっている。頬はふっくらとお多福だが、鼻筋はすっきり、目はすらりと横に長い。その首には、短い藍色のネクタイ。愛嬌のある姿だが、放たれるオーラは威厳がある。


 彼は長い間、ベクターズカンパニー空の駅支社にて新人教育補佐という、どうでもいいような役職に就いている。

 厳しさと優しさで、これまでに幾人もの新人を配達のプロフェッショナルに仕立て上げてきた、教育の鬼、いや猫だ。最近は月日が性格の角を削ったらしく、昔より随分丸くなったらしい。ついでに体格も大分丸くなったとか。今年の新入社員のエディも、勿論ガットの世話になっていた。


 ようやく教え子が手を離れた今の時期、彼は課長デスクの隣、黒ずんで落書きがあちこちにある木造デスクの上に、焦茶色をした煎餅座布団を敷いてゴロゴロしている。


「あんまり怒ってやるなよ、マイク。まだ入って二ヶ月なんでぇ、これまでの奴らに比べりゃマシなほうさ」


 長い尻尾を揺らしながら、マイクをなだめた。するとマイクは頬を膨らませたまま、ようやくエディから離れる。エディはほっと心の中で息をついた。


「もう、猫将軍はエディに甘いんだからッ」


 ぷりぷりと怒りながら、マイクは椅子に座った。エディは彼の動きを目で追う。ぎしぎしと音をたてる椅子が、小さな悲鳴のようで、見ていて可哀想だった。


「修理費はねぇ、ウチの課の予備費で賄われているんだよ。分かってる? ただでさえ、今年に入って経費削減って言われて、予算が減っているっていうのに」


 マイクはエディから離れたが、怒りが収まったわけではなさそうだった。座っても、まだぶちぶち言っている。小言だ。耳が痛い。

 自転車事故は不可抗力だ、不慮の事故だ、と言ってもマイクには言い訳にしか聞こえないだろう。こうなれば謝る以外、早期解放の手段は無い。


「……はい、すみませんでした」

「まったく、もぉーっ。しっかりとやってよねーっ」 ぷりぷり

「はい。……すみません」

「もぉう。修理出したら領収書切ってもらってねっ」 ぷりぷり

「……はい」


 一応、反省の素振りだけはみせてマイクに背を向ける。それからマイクに見えないよう、思いっきり憎らしい表情をした。

 と、隣に般若の顔が!


「うわっ」エディは飛び退いた拍子に、足下のゴミ箱を蹴っ飛ばした。

「……荷物の手続きも早くね?」


 マイクはエディに対して全く可愛くないアカンベェをして、配送部一課から出て行く。その背中からは、怒りのオーラが燃え盛る炎のように放出されていて、彼と周囲の景色を歪ませていた。


 マイクの姿がなくなると、エディはホッと息を吐いた。

 理不尽な怒りを真正面から受け、反論も出来ず、般若から解放されると同時に疲れがどっと押し寄せてきて、頭がぼうっとした。急にすべてが面倒に感じた。

 マイクに不満を持つことすら億劫だった。

 惚けたように一課の中を見渡す。

 課長デスクを含め八席のデスクしかない小さな部署は、静かだった。

 他の部署が忙しく動いている音と、カラスの声が、微かに聞こえてくる。

 今日は午後から散々だ。なんで怒られなきゃいけないんだ、少しくらい労ってくれてもいいのに。うんざりしつつ、散らかったゴミを片付けた。

 と、ガットが重そうな体を動かし、側に寄ってきた。


「タイミングの悪いときに帰ってきたなぁ、オメーも。さっきなぁ、ちょっとしたごたごたがあったんでい、それであの態度よ」

「なんだ、それじゃ八つ当たりされたのか。普通にしていても怒ったような顔をしているのにさ、怒ると昼間でも心臓に悪いよ。モーゼフ爺さんにトラブルがあるって言われたけど、これだったのかな」

「なんでい、オメーまたあの爺さんに占ってもらったのかい」

「うん、成り行きだったんだけどさ」


 断れなくて。無理矢理に。その顛末を話すと、


「そうかそうか。だがなぁ、占いなんて気持ち次第なんだぜぃ。オメーが今のをトラブルだと思ったら、占いは当たったことになるしよ、こんなモンじゃあねぇなと思ってりゃあ、当たってねぇんだ」

「モーゼフ爺さんも、同じことを言っていたよ」

「そうかい。ま、あんまり深刻に受け止めるこたぁねえんだ。孤独な老人の話し相手になんのもな、配達員の仕事の内でぇ。ああ、それじゃあオメーが持ってきたあの荷物は、モーゼフのトコのか」


 ガットはふん、と鼻を鳴らしてそれに視線を向けた。彼が指したのは木箱である。

 エディがモーゼフから預かった、謎の木箱。今はエディのデスクの上に置いてあった。


「中身は何でぃ」ガットが尋ねる。「重いのか?」

「以外と軽かったからさ、持ち運ぶのは簡単だったよ。中身は『付属品で本体』としか書いてない」


 壊れ易いものかな、だったらヤバイなあ、さっき大コケしたとき、壊れたかもしれない。エディは不安になる。


「妙な書き方だなぁ。『付属品で本体』たぁな」

「国語が苦手な人なのかも」


 そうではないな、と自分で分かっていたが、理由らしい理由も見当たらなかった。


「モーゼフ爺さんは、差出人が知らない人だと言っていたんだ。爺さんはずっとあそこに住んでいるんだろ? 差出人が宛名と住所を間違うことはあるだろうけど」


 宛先の住人が引っ越してしまって、まったくの別人が住んでいた……差出人がそうとは知らず、元の住人の名で送ってしまう間違いがあるのだ。そういう事例はよくあるし、エディも何度か遭遇していた。その場合、荷物は『差出人戻し』扱いになる。

 だが今回は、その事例に当てはまらない。爺さんは生まれても育ちもあの家で、別の場所から移ってきたわけでない。元も今もなく、ずっとモーゼフ・ペイターズが住人である。

 だから。モーゼフと面識の無い差出人が、宛名をモーゼフにし、住所を彼の住まいにしたのは意図してのことだ。わざと、モーゼフの家に届けた。


「……なんでかな」ガットを見やる。

「俺が知るかぃ」ぴしゃりと言った。


 エディは肩を落として、深い溜め息をついた。


「爺さんの占いのこともあるし、いろいろあって気になるなぁ」


 気にするな、と言われても気になるし、気を逸らせようとすればするほど、風船のように大きく膨らんで気を揉むのは、自分が神経質なのだろうか。


「そういえば爺さんからの伝言だけど、『よくないから注意しろ』ってさ。何を占ってもらったんだ? ガットは占いを信じないと思ってた」


 何にでも精通し、博識な彼でも占いに頼るのか、とエディは意外に思っていた。肥満体だから、今後の健康運でも見てもらったのかもしれない。年も年だし、健康に気を遣うのは当然だろう……そう考えたが、実際は違ったようだ。


「奴とは十年来の仲だ、奴の運勢を見る力はゴシップ誌より信用できらぁ。……モーゼフの野郎にはよう、近頃西の国境での戦闘が盛んだからな、今後の動向を見てもらっただけでい。そうかい、よくねぇと言っていたか……」


 エディの考えも及ばないことだったので、驚きも納得もなかった。西の国境などロックリバーから見れば真逆の、一番遠い場所だ。対岸の火事も煙すら届かない程離れていて西の街など国外に等しい。地方紙には二週遅れで情報が入ってきて、取り扱いも小さい程だ。

 そんな場所のことを知る必要があるのだろうか。と疑問にすると、


「全然関係が無ぇように見えても、どっかで繋がってるモンなんでぇ。動きがあれば、直接間接問わず、何かしらの影響が出るモンだ。国の大事なら尚更だ」

「考え過ぎじゃないのか?」


 実際、エディにはガットの言った事は突飛だった。国のどこかで戦闘があるのはなんとなく知っていたが、それも遠い国の出来事のように思っていて、自国で起きている事という実感は無かった。ふうん、なんか大変そうだな。そんな程度である。危険の場所が離れれば離れるほど、危機感は水でぼかしたようにぼんやりとしていた。それが、影響が出る? こんな何も無い田舎にどんな影響があるというのか。

 彼の考える事は入道雲のように大きく、エディには計り知れなかった。


「まぁ、オメーは荷物を配達するだけだ、気に病まなくても大丈夫でぇ」


 ガットは気にするな、と笑ったが、エディは本日何度目かの溜め息をついた。

 こんなに溜め息をしてたら、俺の幸せなんてとっくに無くなっているなあ。そんなことを思う。知らない事が多すぎて、頭の中は霞がかかったかのように、はっきりとしなかった。それがまたもどかしく少しだけイライラして、深い息と共に吐き出した。

 これは溜め息じゃないぞ、と自分に言い訳がましく心の中で呟く。


 伝票を整理したら明日の配達のために自転車を修理に出しに行こう、と気分を改めた。


 気づけば太陽の光が強くなっている。夏はまだまだ遠い五月の終わりだが、日差しは確実に夏に近づいている。ちょっと前まで夜だった時間なのに陽はまだ沈まず、オレンジ色の眩しい光を放っていた。


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