第3幕・10 追い風マーク
正午を過ぎた空には白い大きな雲が広がり始めていて視界が狭い。
空気は身を切るように冷たかった。
いくら体力があるとはいえ、全力で自転車を漕いだのは無謀だった、とエディは後悔していた。
とにかく前へ。
しかし、足は自分の意志とは関係なく動かなくなっていくのだ。誰が足を掴んでいて、ぐいぐいと力を入れて動かせないようにしているみたいに。
それでも、足を動かす。手を振り払うように……
「おい、見えたぞ! 俺は正しかっただろう!」ガットが叫んだ。
ぼんやりとする目を凝らすと、ブルートロッコの姿が雲の隙間に見え隠れしていた。
だが、エディはもう、激しく呼吸をしても苦しくて、返事もできなかった。頭の中に白が押し寄せて思考を染めて、足がどんどん動かなくなっていく。
ちっ、というガットの舌打ちが聞こえた。それから彼はカゴの中で器用に体をねじらせエディの方に向くと、前足と爪を使ってエンジンの紐を引っ張った。
エディが「あっ」と言う間もなく……背中を突き飛ばされたような振動。
「何、するんだ!」
強い力に引っ張られてエディの体が仰け反る。
ガットはカゴにへばりついた。
後輪は急加速をし、エディの何倍もの力を発揮した。予想外のスピードにエディは面食らい、ハンドルを握って飛ばされないようにするのが精一杯だったが、慣れると元の風を受け流し易い前のめりの姿勢に戻った。ガットはカゴの中で風に圧し潰されたままで、鼻の先が彼の顔に触れそうになる。
風はごうごうと耳を打つ。車輪は高速回転を続け、エンジンは振動して車体を揺らす。
細い線のようにしか見えなかったブルートロッコが、どんどん近づく。
自転車は猛スピードでブルートロッコに迫る。
ところが貨物車両との距離が百メートルほどまで縮んだとき……ぷすん、という間抜けな音がしてエンジンが停止した。
まだ五分も過ぎていないはずなのに、どうして!
エディは驚いてエンジンを見るが、そんなことをしても解らなかった。
ハーレーの設計通り、自転車の後輪は回転を続けている。エディがペダルを踏んでも空回りをするほどのスピードを持っていた。
自転車はブルートロッコを追う。
目の前にブルートロッコが迫る。
目の前に……
「うわあっ! どうしよう、ぶつかる!」
「ブレーキだ、ブレーキ!」
エディは思い切り手に力を込めて、ブレーキを握った。その瞬間。
勢いを残した自転車は、尻を浮かせて前方に回転……宙返りをして前輪も浮き上がり、エディは眼下に空を見た。
そして、後ろから貨物車両の木製扉に威勢よく突っ込み、ばりばりどすん、と貨物車両の中に倒れて背中を打った。
一瞬息がつまり目の前が真っ白になる。何が起こったのか瞬時に理解できなかった。
「馬鹿やろう! 前輪のブレーキもかけてどうする!」
ガットの怒鳴り声が聞こえた。起き上がって見ると彼は奥まで投げ飛ばされていたが、猫の持つしなやかさのおかげで無傷のようだった。
エディは前輪のブレーキを握ったのだ。それがいけなかった。
前へ進もうとする自転車は前輪が急停止したことによって、つまずいた状態になった。そして、このありさま。
貨物車両に荷物なかったとはいえ、よく二人とも無事だったな、とエディは奇跡を感じた。打撲だけで済んだのは奇跡だ。貨物車両の扉に体当たりしたのも奇跡だ。
「なに惚けてるんでい、ほれ、さっさと起きねぇか!」ガットが急かす。
エディは背中に痛みを感じながら、立ち上がる。
※ ※
ブルートロッコの降車係(扉の開閉と運賃の回収が仕事)のモリスは、これまで運の無い人生を送ってきた男であったが、それでも降車係という職に就けたのは、まだ神から見放されてなかったからかもしれない。
彼は神に感謝していた。ついさっきまで。
モリスは、どうして、という恨みと、お助けください、という祈りを神に捧げながら、二両目の最後尾の座席に隠れて震えていた。
ロックリバーから出発する直前、扉を閉めようとしたときに大きな鞄を持った、大きな男が押し入ってきた。
顔を真っ赤にした悪魔のような男を見て、モリスは青ざめた。
彼は男が手にしていた、命を奪う悪魔の道具……拳銃を目の当たりにしたのだ。溢れ出す恐怖に耐えきれず奥へ奥へと逃げた。悪魔は彼を追って二両目に。
その直後。
悪魔の後ろから勢いよく入ってきたのは、一人の青年。
数メートルと離れていない彼らは向き合う。
モリスに背を向けた男は腕を動かすと、耳をつんざく轟音を発した。乗客の悲鳴があがる。
「ボスへの反抗心は結構ですがね。仕事の邪魔をしないでください。でないと本当に、あなたをどうにかしなくちゃいけなくなる」悪魔に相応しい声で男が言った。
「邪魔をしているのは君の方だ。トムは僕の邪魔ばかりしている」青年が言った。
モリスは二人の声を聞きながら、最後尾の座席に身を寄せる。
「大丈夫かい、兄ちゃん」
声をかけられ、モリスは心臓が口から出そうになって慌てて口を手で押さえた。
横を見ると、窓側の席に帽子を被った中年の男が座っていた。
「まったく、こんな所で銃を使うなんて、非常識だな」
男は暢気な様子で溜め息をついた。落ち着いているのか鈍感なのか、モリスには判断がつかなかった。
それから……どれくらい経っただろうか、恐怖と緊張、混乱、不安。それらが時間を狂わせていた。悪魔と青年は相変わらず睨み合っている。
モリスは緊張しながらも、時間を知ろうと腕時計を見ようとした瞬間、どおん、という音と後方からの激しい振動。客が、悪魔が、青年が、突然の揺れに驚いた。そしてモリスを、いや後ろの扉を見た。
どすん、ばたんと音がする、その扉の向こうを……