第3幕・9 空へ!
頬が火傷をしたみたいにじんじんとしている。
ブルートロッコの発車を見たエディは、それでも駅に向かって走った。
男たちが乗っていませんように。
そうすれば、次の発車まで一時間はある。彼らは空の街に閉じ込められ、その間にガットに会うことができれば、きっといい知恵を教えてくれる。
階段を駆け下り、ようやくベクターズカンパニー空の駅支社の前まで来た。周囲がいつになくざわついている。
駅の前には人だかり、屋台の主人や行商の老人が言葉を交わしている。
見知っている自衛団員の姿もあった。
彼らいるということは、つまり事件が起きたのだ。
最初に思い浮かんだのは、あの大男だった。あの凶暴な男。金髪の男。何しに来たのか、よくわからない愛想のいい青年たち。
駅に近づくと、興奮した人々はエディを見て驚いた目を向けるが、それも一瞬で、すぐさま自分たちの話に熱中した。エディはざわめきの欠片を拾い集め、何が起きたのか推測する。
……なんて物騒なんだろう……
……これだから余所者は……
……ツルッ禿の男が……
……トロッコに……
男はトロッコに乗っていた。
もう届かない。
どこにも。
手を伸ばしても、どれだけ走っても、追いつくことはできない。
目の前に、虚無の空間が現れた。音も景色も吸い込まれ、エディの感覚は遠くなって、虚無は体を侵害し、エディ自身を飲み込んでしまっていた。
突然、体から力が抜けていった。頭がぼうっとして、目がぐるぐる回った。
落ちていく感覚……
虚無の空間の底には、自分の力ではどうにもできないという、現実があった。
ここから先は、どうにもできない。そうだろ?
虚無の底から、慰める声がした。
身を引いても、誰も怒らないさ……
自転車では時速二十キロメートルで走るブルートロッコに追いつくのは難しい。発車からもう何分も経っているし、ロックリバーから出るブルートロッコは南のサンミラノか、西のルーツェへ向かう。
そうだ、と顔を上げた。そうだ、まだなんだ。
どうにもできない、ことはないんだ。
その瞳には光が蘇り、崩れていた心が立ち上がっていた。
前へ、前へ。
「自転車は? エンジン付きの!」
エディが飛び込んだのは、ハーレーの工場だった。
シャッターが開いた工場に乗り込んできたとき、ツナギ姿の青年は右手にペンチ、左手に肉饅頭を持ち、間違ってペンチを口に運ぼうとしていた。
「あるけど、それよりもその怪我どうしたんやいね? ちょっと待っとって、救急箱取ってくるし」
エディの顔を見たハーレーは、彼の顔を見た人々と同じように驚き、慌ててペンチを皿に、肉饅頭を工具箱に入れて、奥の引き戸を開けて居間へあがろうとする。
「怪我はいいんだ、もう治った!」エディが慌てて引き止めるが、
「ウソこけや。見とるこっちが痛いわ」ハーレーは構わず長靴を脱ぎ始める。
エディは彼の背中を引っ張って、工場に無理矢理留まらせて懇願した。
「自転車を貸してほしいんだ! あの、変な機械が付いたやつだ! あるだろ?」
「まあ、いいけど……どしたん、急に? 実験体になるのは、嫌やったんやないんかいね」
ハーレーは首を傾げながらも、長靴を履き直し工場の端へ行く。
何も訊かずにいてくれた彼に、エディは感謝した。
ハーレーは笑顔で自転車を持ってくると、エディの事情など関係ない、という調子で嬉しそうに言った。
「あれからちょっと改良して、使い易くしたんや。カゴはサービスやし」
エディが昨日見た機械は、今度は大きなカゴ付きの変わった型の自転車にくっついていた。後輪が三つもあって、不格好だった。
それを前にハーレーは説明する。
「自転車は後輪を回して前に進むよう出来とるやろ? このモーターエンジンは真ん中の後輪を強制的に回して、推進力を生むんや。自転車の利点は漕がんくても、車輪が回るとこやんね。ほやからエンジンが止まっても両端の車輪は回るようにしてあんやわ」
ハーレーは女性を扱うような手つきで、サドルを撫で回す。
笑顔が気味悪いな、とエディは思った。
「なんか、言ったかいね?」
「ううん、言ってない……」
ふうん、と頷くと青年は続けた。
「それで、空を走るときはベクターズの自転車と一緒で、まずイメージするんや。自転車が安定してきたらハンドルの真ん中に付いとる紐を引っ張る。そしたらエンジンが動いて車輪も回る。もう一回引っ張ると止まるから、エンジン止めてからブレーキかけるんやぞ」
解ったか? と話し足りない様子でハーレーが言う。
「うん、ありがとう」
ハーレーは壁に掛けてあったゴーグルの付いたヘルメットを投げ渡す。
受け取ったエディは装着し、自転車の留め金を外して空を走る自転車にまたがった。
「本当に、ありがとう」
「エンジン動くの、だいたい五分やし、気をつけねや。後で感想も聞かせてやぁ」
説明を聞く間、少しの休息を得た落ち着きを取り戻し、うん、と強く頷いて、エディはペダルを踏む。
ハーレーは嬉しそうに手を振って、少年を見送っていた。
腰を半分浮かせ前のめりの姿勢になり、ペダルを蹴るように自転車を力の限り漕ぐ。
耳を掠めていく風の音がいつもと違って感じるのは、心の内に秘めるものが違うからだろうか。
空を走っているというのに開放感は無く、壁で囲まれた狭い道を走っている気分だった。
エディはゴーグル越しに見える、カゴの中で揺れる肉の塊に視線を投げて叫んだ。
「あのトロッコはサンミラノ行きなんだな! ルーツェ行きじゃないだろうな!」
「間違いねぇ! 俺ぁまだボケちゃいねぇよ!」
カゴの中で、ガットが怒鳴るように大声を出して答えた。
昼を過ぎた頃である。エディとの約束のため空の駅支社をでたガットは、駅からの尋常ならざる爆発音を聞いた。
何事かと、混乱し逃げ惑う人々の波に逆らい駅へと向かい……騒動の半分を目撃した彼は、怯える駅員を奮い立たせ、当事者の若者の確保、自衛団の手配と、その場にいた誰よりも落ち着いて指示を飛ばした。
間もなく自衛団員が駆けつけ仕切り始めると、ガットはその場を団員に任せて駅を出た。
だが今度はエディが必死な顔をして自転車で向かって来るではないか。
おおい、と声をかけるとエディはガットの手前で急ブレーキをかけた。
どうしたんでぇ、そんなに慌てて、その顔は何だ?
ガットが矢継ぎ早に質問を浴びせると、エディは泣きそうな顔になって答えた。変な男が、アイリスが。変な青年たちが。おお、そいつぁもしや、先の若者か、だがオメーその自転車は登録外だから空は走れねぇよ、なに行くだぁ? 馬鹿やろう、仕方ねぇ奴だ、そんなツラぁしやがって……言うなり、ガットはひょいとカゴに飛び乗った。オメーだけじゃ危なっかしいぜ、止めたって聞かねぇんだろう、さあ行くぞ!
エディを勇気づけるように言って、駅員にその眼光と威厳と屁理屈で門を開けさせると、空への道を開いたのだった。