第3幕・8 鐘が鳴る
トロッコが出発する、少し前のことである。
空の街の中を、二人は急ぎ足で歩いていた。
「さっきの悲鳴はあの女の子でしょ? 行かなくていいんですか」
ハマートが尋ねると、スーヴェンは淡々と答えた。
「何しに行くんだよ」
「何って、女の子が襲われているんですよ。見ぬ振りするなんて、人でなしじゃないですか」
「今は、そんなことを言っていられないんだよ。あの人形は誰の手に渡ってもよくないんだから、駅で待つんだよ。最終的には、空の駅に来るだろうから」
「誰が、ですか?」
「オヤジの忠犬たちさ」
スーヴェンの予想は、半分は当たっていたが、もう半分は外れていた。
空の駅にやってきたのは坊主頭の大男、トムだけだった。他の二人の姿は無い。
駅舎の中でスーヴェンとトムは向き合う。
駅舎のベンチに座っていた客は彼らの殺気を感じ取り、そそくさと駅舎から避難した。
入り口には、屋台の主や行商人が集まって興味深気に見物していた。
その中にハマートも素知らぬ顔で混ざっている。
「その鞄には『鍵』が入っているんだろ? やり方が野蛮じゃないかな。堅気に手を出すなんて」
改札口の前に立ち塞がり、スーヴェンはできるだけトムに威武を感じさせるように言った。
だがトムは少しも怯まない。彼も股、幾多の困難から、相手を抑えるための破壊と威圧を学んでいた。凄みをきかせた声を出す。
「ふう、仕方ないですな。これも仕事ですから」
「君は他の奴らとは違って分別もあるし、もう少しスマートだと思っていたけれど。残念だね」
「何とでも言って結構。あっしはヤクザの道理を貫いているだけですよ。理解し難いことでしょうがね」
「そうだね。でも君が持っている物は君の忠誠心とは無関係なんだよ。オヤジから聞いているんだろ? 『アイリス』のことを。世界の劇的な変化だ」
「委細承知ですな。しかし、あなたが言う『世界』は、いつだってシーソーみたいに右にも左にも傾いて、不安定で脆いもんです。落とされるのが嫌なら、目に見える範囲の『世界』に踏ん張って立っているしかないんですよ」
「……僕は偽善者でも正義のヒーローでもないから何とも言えないさ。ただ、確実に言えるのは、この事実を知った僕は、少しでもそれを阻止するってことさ。破壊されるのは嫌だからね。劇的な『変化』は『破壊』に等しいんだ」
トムは何も答えず……緊張感がその場を支配していた。
くぐもった車掌の独特の声が、ブルートロッコ発車の旨を伝えた。あと一分で発車します、と。
そのとき、空気が動いた。
唐突にトムは懐に手を入れて……大きな手で大きく黒い金属の塊を取り出した。目の前に突如として現れた壁のように、それは大きな存在感を放っていた。
駅舎はパニックに陥った。成り行きを見ていた駅員も戸惑い、逃げたい気持ちと止めたい気持ちが交差して、扉の隙間から覗きながら震えていた。見物人も駅舎から離れ、勇気ある野次馬とハマートだけが駅舎の入り口で見守っている。
「……それは無いだろ? 一般人を脅かすだけだよ」スーヴェンは平静を保っていた。
「巨大な力は、ときに有効なんです。今がそのいい例ですな。あっしは次の発車時間まで待つ事はできませんので」
「君が持つ物をそこに置いて行ってくれるのなら、道を譲るよ」
スーヴェンは、銃口の向こうにある……少しも揺るがない瞳を見つめていた。
だが、それでも譲らなかった。どちらも、動かない。
車掌の出発を告げる声が駅舎に響き渡った。
かあん、と鐘の音が鳴る。
トムは。
スーヴェンは。
その瞬間、動いた。
脳を揺らす爆発音と、悲鳴。
混乱が巨大な波となり、誰も彼も飲み込んだ。
逃げ惑う人。
叫ぶ駅員。
火薬の臭いと反響する音。
「あわわわわ! スーヴェン!」
ハマートだけが、その場に崩れたスーヴェンに駆け寄った。
仰向けに倒れたスーヴェンの横で、彼は叫ぶ。
死なないで下さい! 助けて下さいぃ!
「やかましいっ」
「わああ! 生き返った!」
体を起こしたスーヴェンは、叫ぶハマートの頬に拳を入れた。
「誰が死ぬか、頬をかすっただけだ! はあ、トムには参ったよ。本当に」
頬のかすり傷を触りながら、肩を大きく揺らして息をする。本当に驚いた様子だった。
「……トムは? 見ていたんだろ?」鼓動が休まる間もなく、スーヴェンは辺りを見渡す。
「はい、トロッコに……でも、それどころではなくって……」
ハマートが心配そうに見ているが、スーヴェンは気付かずに改札口の奥にあるホームを見た。ちょうどブルートロッコがゆっくりと動きだしていた。
あれに乗ったのか!
スーヴェンは急いで起き上がると、ハマートの静止も無視して改札口を通る。
ホームでは駅員が、ブルートロッコを見送りながら駅舎での騒動を気にしていた。
その横をするりと抜ける。スピードに乗り始めたトロッコ列車の連結部分の柵に手をかけ、飛び乗った。
駅員の悲鳴のような怒鳴り声が聞こえたので振り返ると、駅員は顔を真っ青にして慌てていた。彼には気の毒なことに、トロッコ列車は、緩やかな坂道を駆けて始めていた。
連結部分で強い風を受けながら、目の前に広がる青を見た。遠い遠い空の一面。
空に近い場所にいるのに、空はまだまだ遠かった。
スーヴェンは深呼吸をすると、車両の扉に手をかけた。