第1幕・1 エディとじいさん
東西に伸びるメインストリートの東の端にある、赤煉瓦造りの四角い建物。中は日が当たらず、ひんやりと空気は冷たい。湿った土とカビの匂いがしている。
建物の中に居た少年は、一台の自転車に手をかけて、それを引いて外に出た。
柔らかく爽やかな風が頬を撫でていった。先月まで花の甘い香りを漂わせていた風は、今は緑の葉の匂いを街中に運んでいる。日差しは強く、日を追うごとに夏に近づいているのがよくわかる。街の雰囲気が明るくなり、人々の活気も増している。
少年はカゴの中に黒い皮の鞄を放り込み、防護ネットを掛ける。ヘルメットと目を保護するゴーグルを装着すると、自転車に跨がった。自転車の本体は頑丈に作られているために、かなりの重量がある。ペダルに全体重をかけるように漕ぐ。始めはふらふらして不安定だが、スピードに乗ればあとは重みが安定となり真っ直ぐ進む。
自転車はゆっくりと走り出す。
ゴリゴリと、石畳の振動がサドルを通して全身に伝わってくる。
進行方向は、商店街の反対を向く先……駅である。駅前では屋台や行商人が簡素な店を出していて、人々がたむろしている。屋台の主人と談笑する若い女性、新聞を広げる中年男、酒を飲んで陽気に話す老人たち。座敷椅子のような脚の低い藤の椅子に座って、それぞれの緩やかな時間が流れている。
少年は駅舎のすぐ横にある門の前で、駅員に手帳を見せてから中に進んだ。そこは、一般人が立ち入りを禁じられている、車両専用の幅が広い直線の道。駅のホームとの段差はなく、誤って人々が入らないよう柵がしてある。が、ホームには駅員以外の姿は無かった。駅舎を挟んで中はなんと静かなことだろう。しかしこれが普通である。
かあん、と駅員が鐘を鳴らした。
直線の道を、少年は総ての力を注いでペダルを踏み込み、スピードをどんどん上げていく。強い風が耳を叩き付けるように過ぎていく。路は緩やかな坂道になっていて、自転車はどんどん加速する。
その先に。
道は無い。
坂道に続くのは、絵の具をぶちまけたような真っ青な空と、綿飴のような白い雲の空。
頭の中で道をつくる。路の先の道。空の道。
ごうごうと風を切り、少年は空に飛び出て……自転車は勢いのまま宙を走った。遥か下の壮大な大地を眺めながら、空を走る。感覚は坂道を走るときに似ていて、風を受けながらも緩やかにブレーキをかけていく。自転車の走行が安定し、スピードも徐々に落ちてきたら、ペダルを動かす。スピードを維持して走り続けなければ地面に真っ逆さまだ。
空を走る自転車の運転は簡単そうでいて実は体力と運動神経、そして命綱もなく遥か上空を走る自信と度胸が必要なのである。その点に関して少年は合格ラインにあり、また合格する者が少ないので、彼が人に自慢できる唯一の特技だった。
額にうっすら汗をにじませて、今日のことを考えながら自転車を漕ぐ。丘陵地の奥に、青い線が見えた。水平線だ。空との境目は曖昧だが、青の違いがうっすらと判る。
やや下を向けていた車体を平行にすると、自転車は真っ直ぐ前に進んだ。これもイメージだ。大地と同じような道があり、様々な方面に枝分かれしているのを想像する。
天気は晴、視界は良好。ゆっくりと雲が流れる快適で穏やかな日和だ。
鳶がひょろろと鳴きながら、自分より大地の近くを翔んでいる。
※ ※
ロックリバーという名の街がある。
大陸の北にある、世界第二位の国土面積を誇る大国、フェブルマーリ連邦国の首都から東の東、さらに東の果てのド田舎の空の上に浮いている、巨大な饅頭型の土の塊の上に築かれた街が、それだ。
空にある島は総称して「浮島」と呼ばれているが、この浮島は世界に数多く点在しているのでそれほど珍しいものではない。だが、有人の浮島は世界に五つしかない。その中でもロックリバーは最大の浮島で、約五千人の人々が暮らしている。一つの町や村の人口が平均二百人という田舎の中ではそれなりに大きな街だ。
桜の蕾が一つ、二つと開き始めた四月の初め、十五歳になったばかりのエディ・バートンは、ロックリバーにあるベクターズカンパニーという運送屋支局の、自転車配達員になった。癖っけのある栗毛の髪に、褐色の瞳をしており、太めの眉は少年の愛らしさと青年の精悍さを兼ね備えている。微妙なお年頃独特の突慳貪な雰囲気が少ないのは、彼の天然で良質の愛想のお陰か、生来の人の良さか。配達先宅の評判は上々で「田舎の配達員さん」がすでに板に付きつつあった。
そんなエディは今、木々に囲まれた古い家屋の縁側で、へぇ、と相槌を打っていた。
配達は……そっちのけで。
「ふむ、今月のエディの運勢は……」
「今月って。もう一週間ほどで終わりじゃないか」
エディは真向かいに座る、ヤギに似た顔をした爺さんに軽く言った。
村外れの木造一軒家に一人で住んでいる爺さんは、名をモーゼフ・ペイターという。この老人、少々風変わりなところがあり、服装は原色が目に痛い派手な柄のシャツに短パン、ラジオは流行の音楽が流れる民放の番組を好んで聴き、愛読書は人のプライバシーを刺激するゴシップ紙ときている。今も爺さんの横には、原色の派手な色使いで
『陸軍モロ軍曹、人妻との甘い一夜! 浮気相手が語る 布団指令本部の真相!』
という題字が大きく踊った雑誌が置いてある。老いても精力漲るパワフルな爺さんだ。
そんな彼の本業は占師。しかし、爺さんの年不相応にも思える嗜好は(エディは若い考えの爺さんを好意的に思っている)周囲の人々には胡散臭く感じさせるのか、占ってもらおうという人は稀少だ。面白くて気のいい爺さんなのに、誰も爺さんを理解しようとしないことを、エディは残念に思っている。
「何が起こるか分からんのが、人生ってもんだ。残りが一週間だろうと一日だろうと、な。そのために、占いっちゅーもんがあるんだ」
そういう訳で、話し相手の少ない爺さんは、配達に来たエディをここぞとばかりに取っ捕まえて、最近の音楽はどうの、軍であった収賄事件がどうの、とラジオとゴシップ紙から得た情報をベラベラと喋った挙句、まだ帰すもんかと占いを始めた。
エディはというと……モーゼフ爺さんの心境を理解していたので、無下に断る事も出来ず、この家が最後の配達ということもあり、爺さんの話し相手になっているのであった。
二人の間には、選んだ六枚のカードが並べてある。カードには様々な花の絵が描かれていて(花カードというのも爺さんには似合わない)、モーゼフは頷きながら意味を読む。
「ふうむ、こいつは面白いカードが出たわい」
「面白い、って」
エディは複雑な思いをする。運勢に面白いも何もないだろうに。
「三枚目の、未来を表す位置にサクラだ。パッと咲いてパッと散る、サクラの正は移り変わりの早さ、転換期。身辺に大きな変化があるかもしれんな。気をつけた方がいいな、四枚目の心身に、アサガオの逆。花言葉は『健康』だが、逆だから病気、怪我、事故、事件」
「……聞いてると、すごい不安になってくるんだけど」
「だはは、しかも最終のカードにクロユリが出とる。しかも正だ。タロットで言えば死神と同じ意味になる。だが暗示するのは不幸、死ではなく、危機や災難。永久の別れ。そんなところだ。だははは」
モーゼフが大笑いするので、エディは顔をしかめた。不愉快な笑いだった。
「そんなに気落ちせんでもいいぞ。最後の解決のカードは太陽のヒマワリ……逆だから夕日だな。終わり、幕引き。朝日は昇り夕日は沈むが、転じて明日への希望となる。結果を引きずらず次に備える。くよくよするな、ということだな」
まあ、占いとは絶対ではないからな。カードをまとめながらモーゼフが言う。これは、占いの後で必ず言う言葉だ。爺さん曰く、当たり外れも気の持ちよう。当たると思えば当たるし、当たらないと思えば当たらないのだ、と。
「でも爺さんの占いはよく当たるんだよ。前の占いのときも、良くない事が起きるって言っただろ、あの後自転車が壊れたんだ」
「そうかい、そりゃ災難だったな。だが言っとくが、そりゃお前さんが『当たった』と思ったからだ。自転車壊れるくらい屁でもねえ、って思やあ『外れた』ことになるんだ」
「ううん、そうなのかな」
とエディは唸る。それは屁理屈じゃないのか?
「当たるか、外れるかは問題ではないんだ。重要なのは、運の動向を読んで、良い方になるよう助言することだ。だから占師は、予言者よりも予報士に近いかもな」
「ふうん、そうなのかな」
エディは再び唸った。モーゼフの言うことが、正しいのか、間違っているのか、どちらともはっきりと言い難かった。彼には、占いとは、という明確な説明をすることができないから、爺さんがそう言うのだから、そうなのだろう、と思うだけだった。胸の辺りに、灰色のモヤが発生していた。心から納得できない、不信の塊だ。
そのとき、居間の時計がボーンと時を告げたので、灰色の気分でエディは立ち上がった。
「一時間も経っちゃったじゃないか。俺、もう帰るよ」
声をかけると、モーゼフは……どこか寂しそうな表情で、おう、と返事をする。
爺さんが一瞬見せた表情に、エディは後ろ髪を引かれる思いだったが、いつまでも油を売っている訳にはいかない。話し込んでいて忘れていたが、今は勤務中である。
「それじゃ、爺さん。毎度ご利用ありがとうございます」
マニュアル通りの挨拶をして、その場を去ろうとする……と、ちょっと待ってくれ、とモーゼフに呼び止められた。
「あいや、エディ。すっかり忘れていたが、お前さんに持って行ってもらいたい荷物があるんだったよ」
「……なんだ、荷物受け取り便? 手数料取られるよ」エディは足を止めて、縁側に近づいた。「そういうことは、先に言ってほしいよ」
「いやいや、すまんな。差出人戻しの荷物でな。三日前、孫が遊びに来ていて間違って受け取ってしまっての。差出人は知らない名でな、時々変な音はするから開ける気にもならんで。気味悪いから漬物石で重しをしておったのだが、丁度いい、持って行ってくれんか」
「うん? 分かったよ」
差出人戻し……その名の通り、差出人に荷物を戻す事である。封を開けてなければ、ベクターズカンパニーのサービスの一つとして、有無を言わず届けなければならない。
「どの荷物?」
「うむ、これだ」
縁側の隅から、モーゼフがずるずると引き摺ってきた荷物。
それは、木箱だった。小さな子供が入れるくらいの木箱だ。
一瞬、自転車のカゴに入らないんじゃないかという不安が、エディの頭を過ったが、
「分かった、配達する」エディは受け取った。
「中身は『付属品で本体』? 何だろう、何かの機械かな。差出人は……イアソン・ヴォード? ふうん、本当に知らないのか? ボケて忘れたんじゃないだろうな」
「失礼だの、まだモーロクしとらんわい。この通り、ぴっちぴちのセブンティだ」
「七十代でぴっちぴちなら、十代の俺はどうなるんだ」
「ぷっちぷちだな。マメ粒みたいなヒヨッコちゃんだ」
「いやいや、意味解んないよ。もう何も荷物はないよな? 葉書とか、封筒とか」
「ああ、それともう一つ」
「何だ」
「うむ。なあに、些細な事だが……ガットに伝言を頼まれてくれないか。良くない方向へ進みそうだから注意しろとな、伝えてくれろ」
「ふうん、分かったよ」
もう一度モーゼフに挨拶をして、木箱を抱える。意外と軽く、苦労せずに運べそうだった。歩くたびに、中でごとごと音がするのが気に掛かる。
後ろで爺さんが、気をつけて、と言っていた。