第3幕・6 前進
スーヴェンは黙って歩いていて、彼がトムに対して燃えるような怒りを覚えていることを、ハマートはよく分かっていた。静かに怒りを鎮めようとしていることも。それでも空気を焦がすような緊張に耐えられず、ハマートは口を開いた。
「それにしても、さっきの女の子はすごかったですねー。スーヴェンの顔が怖かったんでしょうか?」
スーヴェンは間を置いて言った。
「そんなわけないだろ。何があったか知らないけど、とにかく彼女こそが『鍵』だよ」
「ボスが捜している鍵ですか? でも『アイリス』と同じ名前でしたよ」
「付属品なら同じ名前だろうさ。あの場にいたなら、彼女が『鍵』だとトムも気付いただろうね。それにしても何であんなに酷い音を出したのか……」
スーヴェンは顎に手を当て考え始めると、横からハマートが口を挟んだ。
「なんだか、今回は鍵がいっぱい出てきますね。倉庫でもイアソンの家でも」
「鍵……そうか、鍵か」スーヴェンは彼の何気ない言葉に閃いたようだった。
「『停止のための鍵』だ」
「どういうことですか?」
ハマートは尋ねる。
スーヴェンが答えようと口を開いたとき、被さるように、空を切り裂くような、鋭い悲鳴が……今度は本当に、抵抗のための激しく、悲しい悲鳴がした。
※ ※
「離して! 離して離して!」
瞳に光が戻ったアイリスが、悲痛な声をあげている。
「アイリスを離せ!」
エディは剣呑な男たちに向かって叫んだ。坊主頭の大男を先頭に、鋭い眼をした二人の体格の良い男たちがエディを睨みつける。
あまりの鋭さに、そのまま刺し殺されてしまうんじゃないか、とエディは男たちが放つ迫力に負けそうになる。
高い壁に囲まれた道ので、一人と三人は対峙していた。
こいつらがアイリスが逃げていた『誰か』なのか?
息を整えながらエディは考える。男たちの側には大きなバッグがあった。持ってきたのか、市場で買ったのか……それにアイリスを入れようとしているとしか思えなかった。
道具のように、彼女を入れるために。
「いやっ! 離して! 留まってはだめなの!」
アイリスは激しく抵抗している。
入れ墨をした男が面倒臭そうに、鋭く低い声をエディに放った。
「ガキが首を突っ込むんじゃねえ。子供は子供らしく、砂場で遊んでろ。面倒臭ぇな」
「う、うるさい! あんたたちが何者か知らないけど、大人が犯罪やっていいのか! あんたのそれは、誘拐だろ」
エディも力を振り絞って言い返す。
「こいつぁ人形だから、窃盗だな」
大男がにやにや笑いながら若い二人に目配せした。
すると二人は顔を見合わせ、刺青の男が鬱陶しそうに顎で合図をする。
金髪の男が嫌そうな顔で、黙ってエディに向かってきた。肩幅は広く手は骨が角張っていて、凶暴な顔つきをしている。
足がすくむ。
喧嘩などしたことがなかった。勢いにまかせて立ってみたが、どうすればいいのかわからない。
男の目が怖かった。
凶器のような手も、口の隙間から見える牙のような歯も、足を鳴らして歩く音も。
男が左腕を突き出し、避ける間もなく首を易々と捕らえ……頭を壁に打ちつけられた。
狭まった気道で息が苦しい。ひゅうひゅうと呼吸の音が漏れる。
「弱っちいなぁ。カスすぎて涙が出てくるぜ」
金髪の男が嘲笑うような声で言うと、エディの頬を殴った。鈍い音がして、口の中に鉄錆の味が広がった。
アイリスの悲鳴が聞こえる。男の体の隙間から、彼女の姿を見た。
アイリスが。
彼女は突然力を失った。手足はだらりと下がり、首が折れたように上を向く。一瞬見えた彼女の目は見開いて無機質となり、人形のガラスの目玉となっていた。
アイリスに、何が。アイリスが。
「離せ!」エディはオオカミの牙のような腕に、爪をたてて抵抗した。
「テメーをか? それともあの人形か?」男は再び殴る。
頭の中が揺れる。視界が定まらない。その間に、金属が弾けるバチンバチンという音がした。
何が起きているのかわからなかった。
目の前が霞んで、息が苦しい。心臓は酸素を求めて激しく脈打つ。
……やっぱり無理だっただろ?
ぼんやりする頭の中で声がした。無理だって? その言葉が突き刺さる。
無理でも、これだけは。譲れないだろう?
「おい、もういいぞ」
大男が言う。
金髪は気怠そうに頷いて、大きく腕を振り上げた。ひゅっという空を斬る音がして、拳が……エディの目の前で。
「待ちな!」という声に阻まれ、止まった。
誰だ?
その場にいた、誰もが声の主に集中した。
仁王立ちで、太陽を背に道の真ん中に影を落としている。
その主は、トリティだった。守衛服を脱ぎ、白いシャツと紺色のズボンで額にサングラスをかけている、簡単な服装をしていた。
「何だテメーは?」
金髪が横目で彼女を睨みつけ、低い声で凄む。
「正義の味方よ!」
トリティは言うと、額のサングラスを外し……金髪男に投げつけた。男は咄嗟に拳で振り払う。その一瞬に間合いを詰め、腕が地面を向いている間にトリティのしなやかな鞭のような蹴りが男の顔面に直撃した。
不意を突かれた男はエディを解放し、後ずさる。
道に唾を吐いた。
その横に首筋に蛇の入れ墨を彫った男が並んだ。
そして後ろから大男が二人に何かを言うと……バッグを引きずって、大男は道の反対を駆け足で去って行った。
「うえっ……はあ、姉ちゃん?」
エディはその場に座り込む。
なぜ、ここに? エディは訊きたかったが、むせて言葉が途切れた。
「久し振りに『カボチャ村』のカルボナーラを食べようと思ったのにね。物騒な男どもがアイリスちゃんを追っているのを見たら、放っとけないでしょ」
トリティはポケットからハンカチを取り出し、エディに投げた。
「情けないツラだね、男のくせに。事情はよく分からないけれど、ここは私に任せて。あんた、いい加減男になんなさいよ」
姉の強い言葉に、エディは体に力が戻ってきたのを感じた。
心が奮い立つ。目の奥に意思の光を戻し、エディは体を起こして走り出した。
※ ※
「さあ、どっちからやる?」
トリティは武道家のように構えた。前には大男が去って行った道を塞ぐようにして、二人の無頼漢。
エディが後を追うのを背中で感じて、心の中で弟の無事と救出の成功を祈る。
「素人の喧嘩好きが、女だからって容赦しねぇぞ」金髪男が睨む。
「お生憎様、私はこれでも元軍人。そこらへんのチンピラと一緒にしないでちょうだい。あんたたちこそ、後悔すんじゃないわよ」
挑発的な笑みを浮かべ、トリティの瞳が鋭く光った。