第3幕・5 全力少年
ふとアイリスが視線を逸らしたので、エディは何事だろうと訝しんだ。彼女は自分越しに何かを見ている。察して振り返ると、二人の男が歩いてきていた。
右側の男……皮のジャケットに黒いパンツというシンプルだがよく似合っている、二十代の青年。
左側の男は初めて見る。地味な色合いの服で大きな眼鏡をかけていて、老けた印象があるがよく見れば右の青年と同じくらいの若さだ。
二人とも土地の者ではないことは一目で気付いた。
こざっぱりとした服装や雰囲気は、周囲の空気と馴染んでおらず、風景画に人物の写真を貼付けたような違和感があった。
アイリスが、すっと背後に隠れるように移動した。ちらりと見ると、表情が硬い。
「やあ、こんにちは」
青年が親しみの笑顔で挨拶をしてくるものだから、エディも思わず「どうもお久しぶりです」と挨拶を返しそうになるが、よく考えればどこの誰とも記憶に無い人物だった。
「また会ったね。昨日はどうもありがとう」
青年は続けて言うのでエディは記憶の糸を手繰る。昨日何かあっただろうか?
昨日は……朝からみんなが慌ただしかった。
遅刻をして、配達して。
アイリスに会って、配達して。
帰ったら日が暮れて。
呆気なく一日が終わってしまったので、具体的に思い出そうとしても夢のようにぼんやりしている。
昨日はどうも、と言われてもエディはすぐに思い出せず、礼を言われて言葉に詰まった。
「えっと、あの……寝具店の若旦那さんですか。今日はお店は休みなんですか?」
当てずっぽうで言ってみたら、やはり大ハズレだったらしい。青年は露骨に嫌そうな顔をした。
しまった、間違えてしまった。ではアンメル金具店のお婿さんだったろうか。エディは頭の引き出しを引っくり返して記憶を探るが、錯綜するだけで増々混乱した。
「違うよ、昨日は道を教えてくれたよね」
苦笑しつつ青年が説明するので、エディはやっと思い出す事ができた。
「ああ、あの……」イアソン・ヴォードの家に行く途中で出会い、道を教えた。あの人たちか。あのときも笑顔だったな。
「そうそう。思い出した?」
青年はにっこり笑う。隣の眼鏡は青年の一歩後ろにいて、愛想はいいが喋る気配はない。
エディから見ても青年は男前で、柔和な印象があったが、笑顔を真正面から受け取れないのはアイリスが自分から離れようとしないからだろう。自分の背中で小さく体を縮めている。
美しい花は萎んで、開こうとしないのだ。
「……知っているのか?」エディは小さな声でアイリスに訊いた。
「知らない人たち。でも、そばに。すぐそこに。風のすきまから出てきたの」
首を振りながら、アイリスは答えた……しかしエディには彼女の意図するものが理解できなかった。何を言っているのだろう? でも、支離滅裂なことを言っているようにも思えない。
アイリスは二人を見て怯えている。それだけは確かだ。
「何か用ですか」エディはアイリスを庇いつつ、警戒心を強めて尋ねた。
「そう、用があるんだよね、僕たちは。でもそれを説明すると、とても長くなるんだ」
青年は顎に手を当て、言葉を探っている様子だった。
「どこから説明すればいいのかな。僕たちが用があるのは、後ろの女の子」
「アイリスに?」
「アイリス……そうか、アイリスか。うん、アイリスちゃんに確かめたいことがあって」青年は勝手に納得しながら、アイリスに近づく。
その一歩が。アイリスには大きなものだった。
ああああああっ
耳をつんざく鋭い絶叫を、アイリスが発したのである。それは声というより音で、頭を激しく揺さぶるような高音だ。反射的に耳を塞いでも、音は脳を刺激する。
「え? アイリス?」
吐き気に襲われながらも、エディは何とか声をかけた。
アイリスはエディの声に反応し音を止める。しかし見開かれた瞳の焦点はずれており、どこをも見ていない様子だった。
そして……素早い動きでエディの手を振り払うと、公園の柵に飛び乗った。花のように美しい少女は、エディの手に捕らえられることなく、空へとその身を投げ出したのである。
「アイリス!」エディは叫ぶ。
長い髪はまるで翼のように。
少女は軽い身のこなしで民家の屋根に着地をすると、屋根伝いに駆けて行った。
思いもしない彼女の行動は、エディの理解を越えていて、彼は呆然とその姿を見ていた。家と家の隙間に消えていく、その姿を。その後ろで、声がしている。
「あれっ、あの光る頭はトムの兄貴じゃないですか? スーヴェン」
「ああ、本当だ。運がいいのか悪いのか……嫌な場面で出てくるね」
苛立たし気な青年の声。
その意味を意識して頭に刻む前に、エディは胸倉を掴まれ体を揺さぶられ、動きを止めていたエディの脳は叩き起こされた。
「何をしているんだ、君は! 先に見つけないと、人形を横取りされるよ!」青年が言う。
人形?
「そうだ。君はアイリスを、ただのママゴト人形だと思ってるんじゃないだろうな!」
青年は乱暴にエディを離すと、
「ハマート、行こう」
「はいっ」
眼鏡の青年の名を呼んでアイリスを追って走って行く。
二人の姿も広場からなくなって、ようやくエディは走り出していた。
わけが分からなかった。あの青年たちは何者なのか、アイリスはどうしてしまったのか。何が起きたのか。分からないことだらけだ。確実に言えることが一つもなかった。
「アイリス!」
名を呼ぶが、返事が戻ってくるはずもなく。別れ道に来ては立ち止まる。どちらへ行ったのだろう? あの二人の姿もない。耳を澄ましても声も聞こえない。
ああ、本当に。俺は何をしていたんだろう!
午後からガットがアイリスについて、ただならぬ事情を話してくれる約束だった。つまり、アイリスにはただならぬ秘密があるということ。
それほど重大な、エディの考えも及ばない重要な、アイリスという秘密を追う二人組。
イアソン・ヴォードが、遠くへ逃げろと言った理由。
頭の中で、それらが組合うそばから崩れて行く。
足下に落ちたピースを拾っても、破片はうまく合わさってくれない。
エディは坂道を駆け下りる。
肩を揺らして息をしても、苦しさに追いつかなかった。
肺から出てくるゼイゼイという音が、やけに大きく聞こえた。
空を仰ぎ見た。
深く、濃く、果てのない青。
心が吸い込まれそうになって、目を閉じた。
一瞬、アイリスのことも二人組のことも、ガットのことも……何もかもが、青に染められて頭の中から消えた。
すっと息を整え、目を開く。
その瞳に強い光が宿っている。決意に満ちた、勇ましい光だった。
とにかくアイリスを捜し出し、家に連れて帰ることだ。ガットも来てくれるんだ、そうすれば何とかなる。前を見据えたエディは、よし、と気合いを入れて体を起こした。
その拍子に、上着のポケットから何かが落ちて、ちん、と音をたてた。
見ると、それはアイリスのオルゴールの鍵だった。