第2幕・9 息子VS父
サンミラノにある『クラブ・ミサキ』は、極黎会が運営するカジノクラブだ。
スロット、ダイス、ルーレットといった定番の台があり、バーカウンターやら舞台やら定番の造りになっている。
スーヴェンはクラブの正面入り口で降りると、そのままハマートを帰して、裏口へ向かった。
裏口はクラブとは別空間への入り口だ。壁一枚隔てたこちら側では、遊興の華やかさとは対照的に、黒く、暗いものが蠢いている。
狭くて急な階段を上り、突き当たりの扉を開ける。
そこにはブルドッグをさらに不細工にしたような顔をしたカーネル・ゴールが、接客用の黒いソファに座って煙草をふかしていた。応接間も兼ねる事務所は霞んで煙たかった。
「なんだテメェか。何の用だ」カーネルが、酒と煙草と珈琲で潰れた濁声で言う。
心底興味が無いといった様子だった。
おそらく彼は、風が入ってきた程度にしか思っていないのだろう。
「何の用だ、って? 一番にそう言うのか。倉庫の後片付けをしてやったんだ、ありがとう、くらい言ったらどうなんだ」
「ああ、そうだったか。そんなことも頼んだか? だが引き受けたのはテメェの勝手だろうが、何で俺が礼を言わねばならんのだ。言う義理も義務もねえ。小遣いが欲しいなら、そう言え糞ガキ」
相手を押さえつけ、自己の理屈を押し通す頑固な物言い。これが彼の常である。
カーネルの頭の中は、金と、儲け話が、ほとんどを占めているのだ。そして、その中に自己利益のために、己を偽ることへの羞恥心は無かった。
昨晩の狼狽した、卑屈で、哀れで、追いつめられたネズミのような目も、平気で演じられる。相手の内面をくすぐり、刺激し、天秤を自分側に傾かせることは悪辣商売には最適だ。
スーヴェンはそのことを、すっかり忘れていたのだ。
不覚にもその垣間見た情に流されたことを、深く後悔した。
そして血が繋がっている事実を恥じ、恨んだ。
「金の話じゃない。僕が何をしても勝手と同じにね、アンタが何をしようと勝手だ。でもこれだけは聞きたい。アンタはいったい何を企んでいるんだ?」
そう強く言って……圧服に逆らうように、手にした白紙の冊子を見せつける。
「そいつは何だ?」カーネルが興味を示し、冊子を手に取った。はらはらと捲る。
「なんだ、白紙じゃねえか。ふざけてんのか」
「最後のページだ」
ふん、と鼻から白い息を吐き出して、カーネルは最後のページを見る。すると顔色が青くなり、次に赤くなった。器用なことをするもんだ、とスーヴェンは心の内で呟く。
「こいつをどこで見つけた?」
カーネルがスーヴェンを睨んできたので、スーヴェンも睨み返す。
「……その前に僕の質問に答えろ。アイリスを作って何をしようとしているんだ? それを読む限り、『アイリス』があると世の中が劇的に変化する。まさか世界征服でもしようってんじゃないだろう?」
「ケツの青い糞ガキが、知った風な口をきくんじゃねえ。ろくすっぽ事務所にも顔を出さなかった野郎が、偉そうに言うんじゃねえよ。テメェが俺に意見を言うときはな、その反抗的な態度をなくしてからだ」
「うるさいな。あんたが言わないのなら、僕もそれをどこで見つけたのか言わないよ」
スーヴェンは退かなかった。
しばらくの沈黙の間、二つの鋭い眼光が対立し、部屋の中を潰してしまうような重厚な空気を作り出していた。
何もかもが形も残さず、潰れてしまう前に、先に口を開いたのはカーネルだった。
「いいだろう、教えてやる。テメェがこれをどこで手に入れたのかも聞かないでやろう。その代わり、俺の今から言う仕事をしろ。報酬も出してやる。取引だ」
それまでとは正反対にも思える言いように(少しだけ口調も和らいでいる)スーヴェンは不審を抱いた。
またなにか、良くないことを思いついたに違いない。
スーヴェンは疑いの眼差しでカーネルを見る。彼はにまりと笑みを浮かべているだけだった。スーヴェンの中で、さまざまな思いが交錯する。
行き着いた先の結末を。
見届ける責任。鍵。本。
己の内に潜む正義は?
「……。」
硬く結んでいた眉間の皺を解くと、スーヴェンは、いいよ、とだけ答えた。
それ以外には何も言わなかった。
カーネルは満足そうに声を出さずに、笑った。半殺しにした獲物を見て楽しむかのような、いやらしい笑い方だった。スーヴェンは嫌悪感を抱く。
「俺がアイリスを作ったのは、金のためだ。それ以外に何もねえよ」
「確かに、あんたにとってアイリスは金以外の魅力はないだろうね。イアソンとはどこで知り合った? オートマタ職人が、わざわざあんたに売り込みに来たわけじゃないだろ」
「奴ぁ、ただの飲んだくれの借金野郎だ。売り込みには来なかったが、製造を持ちかけてきた。アイリスも、それをどこに売ればいいのかも、全部提案してきた。それで借金をチャラにしろ、とな。イカレ野郎だな」
「それで、殺したのは……アイリスをどこかへやったからか」
「まあ、そんなところだ」
カーネルは苛々しながら、短くなった煙草を灰皿に乱暴に押し付けた。
「俺がテメェに言う事は一つ、鍵を捜す事だ。訊かれる前に言っておくが、その鍵は『アイリス』の鍵だ。手違いで紛失したのを、トムに捜させている。テメェはトムと一緒に、鍵を探してここに持ってこい。それだけでいい」
言い終わると、カーネルは新しい煙草を缶から取り出し、口にくわえて火をつけた。満足そうに大量の煙を吐き出し、部屋は一層白く濃くなる。
「……オートマタを作るために金を出した奴がいるはずだ。それに、買い手も。そいつは誰だ?」
「そこまで言う義理はねぇよ、ボケ」
そう言うとカーネルは無関心な顔つきになり、手元の冊子をじっくり読み始めた。スーヴェンのことはすでに意識の外に出てしまい、無色透明になってしまっていた。
それ以上話す様子は無く、零れる笑みからは、自分の策が順調であることを喜んでいるようだった。
スーヴェンは不快な思いに襲われながら……面倒臭さなどとうに忘れ、深淵のような、心の底から聴こえてきた声に耳を傾けていた。
『劇的な変化を。結末を、共に』