第2幕・7 交差
「舌を噛むから気をつけて」
言ってからエディは、うん? と考える。アイリスには舌があるのだろうか?
それから、味覚も持っているからあるか、と思い直す。そういえば、話している時になんとなく舌も見えていた。
「うん、だいじょうぶ」とアイリスが返事をする。
エディは頭の中で緩やかな下り坂を思い描いていた。空から、大地へと続く、長い坂道。車輪が停止しない程よい加減を保ちつつ、ブレーキをかける。
前輪が地面に接触する。
石畳を叩いて、小石がぱちんと跳ねた。すうっと滑り込むように後輪も地面に降り立ち、無事に着地した。スピードは下り坂からそのまま移行され、道端の小石を車輪が弾く。周囲の景色も足早に去っていく。
「わあ、すごーい。おもしろい!」
アイリスはカゴの中ではしゃいでいた。ヘルメットはしているものの、メリーアンヌに整えてもらった長い髪が、風になびいて乱れていた。
ロックリバーを出発して一時間以上が経っていた。昼下がりの時間は相変わらず日差しが強く、ヒツジのようなもこもこの雲が空を漂い、誕生と消滅を繰り返している。
差出人であるイアソン・ヴォードの家は、ベクターズカンパニー空の駅支社の管轄の一番遠い場所にあった。道すがら午後の配達をしているので、余分に時間がかかっていた。
アイリスは三輪自転車のカゴの中に収まっていた。
本来なら箱ごと差出人へ届けなければならないのだが、彼女を箱に入れて荷物扱いするのは気が引けた。
アイリスを乗せて自転車を走らせるのは危険だったので(昨日事故を起こしていたから尚更だ)、貨物車を他の配達員の運転で出してもらおうと思ったが、それは叶わなかった。
というわけで、仕方なくアイリスだけをカゴに入れて、イアソン・ヴォード宅へ向かっている。
アイリスは配達の間、ずっとカゴの中に入っていたのに、疲れていない様子だった。
自転車のスピードに興奮して、楽しそうに笑っている。一時間以上も。
「楽しい! ねえエディ、もっと速く速く」
「ダメだよ、危ないから」
「じゃあ、空走って」
「だめだよ。もうすぐ着くから」
アイリスは、自分が生みの親の元へ帰ることを理解していないらしく、ずっと笑っている。それがエディには心苦しかった。
トリティやガットが言っていたように、アイリスは何らかの事情でイアソン・ヴォードの元から離れなければならないのに、自分は帰そうとしている。それは仕事だから仕方ないけれど、エディには『仕事だから』が自分を正当化する、言い訳のように感じた。
本当にこれでいいのか、取り返しのつかないことが起きるんじゃないか。ずっと思っていたが……本音は、アイリスと少しでも長く一緒にいたかったのかもしれない。
「アイリス」
「なぁに?」
呼びかけられ、アイリスは振り向く。エディはただなんとなく、声をかけただけだったので、何、と言われても何もなかったのだが
「……イアソン・ヴォードってどんな人なんだ?」不審に思われる前に、なんとか話題を絞り出す。
アイリスは、ふと、首を傾げてきょとんとした表情で答えた。
「四十五さいで、どく身なの。それしか知らないの」
「いや、そうじゃなくて……」
人相を訊いたつもりだったけれど、まあいいや、と思って自転車を走らせる。
四十五才、独身、イアソン・ヴォード。オートマタ職人。可愛らしいアイリスを生み出す人物。名前からして男性だろうが、どんな姿なのかなかなか想像できなかった。職人といえば、ごつごつしたイメージがあるが、果たしてイアソンはどうだろう?
しばらく行くと、前方から自動車がやって来た。以前ハーレーが自動車雑誌を広げて、いいなぁ、と子供のように目を輝かせて話していた自動車だ。
ロックリバーでは自動車が走れるほどの道が無いので、自動車を知る人は少ないが、地上で生活しているからといって頻繁に自動車を見かけるかというと、それも違う。人々の移動手段はブルートロッコや馬車、などの昔ながらの公共交通機関だ。
自動車は高価な物で個人が所有することは難しい。
だから目の前から走ってくる自動車……ガラス越しに見える運転席と助手席にいる人物が、それほど年配ではないのを見て、エディはどこの金持ちかと不思議に思った。
畑と林と、茶色い民家があるだけの田舎にどんな用があって来ているのか。
いずれも、ロクなことではないだろう。借金取りか何かかな。嫌な予感がしたエディは、変なことに巻き込まれる前にさっさと離れようとペダルに力を入れ、横を通り過ぎようとした。
「やあ、配達員さん。ご苦労様」
自動車は止まり、全開になっていた助手席の窓から声を掛けられてしまった。
無視をするわけにもいかず、エディも自転車を止めた。
「若いのに大変だね」
そう言う相手は自分より年上の青年だ。にっこり笑った顔は羨ましいくらいの美形だ。雑誌のモデルのようにも思える面立ちだった。
「何か用ですか」
エディの視線は自然と青年の顔に集中する。あまり失礼にならないようにと思っていたら、自分でも驚くほど無愛想な声が出てしまっていた。
いけない、これでは町の配達員さんは失格だ。
「僕たちさ、メニマウントっていう町に行きたいんだけど、道に迷ってしまってね。行き方知らない?」
はい、とエディは答えた。笑顔、笑顔と心の中で念仏のように唱えながら。
「それならこの道を真っ直ぐ行くと三叉に別れる道があるので、それを右に行くと、途中で看板が出ています。すぐに分かると思います」
「そう? ありがとう」
青年は笑顔を崩さず礼を言うと、運転席の男(これも若い男で、眼鏡と丸い顔が印象的だ)に目配せする。
自動車は排気ガスを勢いよく吐いて、エディが来た道を行ってしまった。どうやら思い過ごしだったようだ。何事もなくてよかった、とほっとしてペダルに足をかける。
それから二叉の道を左に曲がって真っ直ぐ行くと、ようやくイアソン・ヴォードの自宅へ着いた。そこから先の道は無い。森の中の一軒家だ。
「すみませーん、ベクターズカンパニーでーす。お届け物です」
「いないの?」
何度も扉を叩き、名前を呼んでも、イアソン・ヴォードが出てくる気配はなかった。
二度ベルを鳴らしても、何の反応もない。
「留守みたいだ」
「ねえ、ここはだれのお家なの?」
とアイリスが尋ねてきたので、エディは意外に思った。
「ここはイアソン・ヴォード……アイリスを作った人の家だよ」
だが、アイリスは首を横に振った。
「私は、もっとせまくて箱がいっぱいある所に、いたの。まどから、家がいっぱい見えたの。くらい中で。もっときたなくて、いやな匂いがする場所に」
どういうことだろう。イアソン・ヴォードは、別の場所でアイリスを作ったらしいが、それが意味する事は何であるか、エディには皆目見当もつかなかった。
仕方がないので『不在通知』をポストに入れて、空の駅支社に帰ることにした。
アイリスは自転車に乗って空を走れることがわかって、無邪気に笑っている。