25 不穏な、乾いた音
グランドール魔法学園のティーパーティーには、いくつか、社交界のマナーからインスパイアを受けた暗黙のルールが存在する。
ひとつ、紅茶を淹れるのはテーブル内で最も身分が低い者でなければならない。
ひとつ、紅茶は身分が低い者のカップから順に淹れることとする。
ひとつ、紅茶を淹れた者は、必ず他の者が一口飲んでからカップに口をつけること。
自らの地位をひけらかしたい生徒が作り、そして似たような思想を持つ者が継いだ悪趣味なルールだ。
ミリィからしてみればどれもくだらないものばかりだったが、この暗黙のルールを教えてくれたシエラは、『こんなの守らなくて良い』というミリィの言葉に固く首を振った。
――「ミリィさんは怒るでしょうけど、私ね、悪目立ちして後ろ指さされるのが1番怖いんです」
――「だから、ごめんなさい。これだけは守らせてください」
そう殊勝な態度で頼まれては、もう何も言えない。
シエラの考えに理解を示したミリィは、せめて力になりたいと、シエラにお茶会での簡単な所作を教えた。とりあえず指を伸ばせばそれらしく見えるだとか、表情を伺うと貴族は気を良くするだとか、そんな誤魔化しの所作をだ。
シエラはそれらを楽しそうに聞き、あるいは驚き、そして次々と吸収していった。
シエラは飲み込みが早かった。その上コツを掴むのも上手くって、一度手本を真似るだけで、それをある程度自分の物にしてしまう。間違いなく、シエラには才能があった。
「……では、えっと、失礼致します」
席を立ち、シエラは恐る恐るティーポットに手をかける。暗黙のルールに則るならば、この場で紅茶を淹れるべきはシエラだ。早速特訓の成果が発揮される時だろう。
リズベルが淹れ方ひとつで文句を言うような人物には見えないが、何にせよ上手くできるに越したことはない。
ミリィは静かに、シエラが紅茶を淹れるのを見守った。最初は自分のカップに、次いでリズベルのカップに、花の香りが漂う紅茶が注がれる。
(うん、そうよ、その通り。そうしたら親指をポットから外して――それそれそれ!)
ミリィが心の中ではしゃいでいるとも知らず、シエラは緊張の面持ちでミリィのカップに紅茶を淹れ始めた。
紅茶の適切な量は、カップのおおよそ7.5割。ミリィのカップがちょうどその辺りに達したところでティーポットの中身がなくなり、ミリィは教え子の完璧なパフォーマンスに涙を流しそうになった。
シエラも安心した様子で一息つき、空のティーポットをトレイの上に戻す。再度席に着いたところで、ミリィは小さく拍手を送った。リズベルも何が何かわからない様子ながら続いてくれる。
「あ、……ありがとうございます。すみません不格好で……」
「そんなことない! シエラ、あなたルキウスに立ち居振る舞いの講座とかやった方が良いわ」
「どなたかわかりませんけど……ええと、ありがとうございます」
照れたように笑い、シエラは愛らしい仕草で視線を伏せる。
その様子を微笑ましく眺めつつ、ミリィはふと、特訓中に抱えた形容しがたい感情を思い出した。
ひたむきで真面目なシエラを見ていると、つい湧き上がってしまう感情。
この感情の名前をミリィは知っている。羨みだ。
シエラに懇々と作法を叩き込む中で、ミリィはちょっとだけ、シエラのことを羨ましく思ったのだ。
稀にミリィのことを頭が良くて羨ましいと言う者がいるが、ミリィは成績が良いだけで、頭が良いわけじゃない。
ミリィが魔法や勉学に長けているのは、繰り返し繰り返し、一度じゃ覚えられないことを時間をかけて頭に叩き込んだからだ。
ミリィは要領が悪い。だから人の名前もうまく覚えられないし、新しいことを覚えようとすると、どうしたって何かを忘れてしまいそうになる。
だから、ミリィはシエラが羨ましい。
物覚えも良いし、笑顔はきらきら輝いていて、まるで物語の主人公みたいだから。
(本当に、本当に羨ましい……)
怯えられて逃げられて、頭も悪いミリィとは大違いだから、羨ましい。
(本当に、……つい魔が差しちゃいそうなくらい――……)
「……公女様?」
リズベルの不思議そうな声が耳に入り、ミリィはハッとして顔を上げた。
見やると、ティーカップを前にした2人が、頭にクエスチョンマークを浮かべてミリィを待っている。
シエラの真っ直ぐな瞳と目が合い、ミリィは思わず目を逸らした。
遅れて心臓が早鐘を打つ。
身体から体温が引くのを感じ、ミリィは己に問いかけた。
(今……、私、何を考えようとした?)
シエラを羨ましいと思ったのは本当だ。
でもたった今、その先に自分は何を考えようとしたのか。絶対に思ってはならないことを、躊躇いもなく思考しそうになったのではないか。
「ミリィさん? ……お茶、飲まれませんか?」
冷や汗が吹き出しそうになるミリィに、シエラが遠慮がちに声を掛ける。
「あ、……ううん。飲む。ごめんなさい、ついぼーっとしちゃって」
「体調悪いんですか? どうせなら校医の方を……」
「大丈夫よ。あの人、とんでもなく心配性なんだから」
校医なんて呼ばれたらまた帰らされるに違いない。ミリィは慌ててカップに指を掛けた。
カップから香る花のフレーバーがざわつく心を落ち着かせてくれる。
そうミリィが一度鼻を鳴らしたところで、突然ぱきりと乾いた音が鳴った。
「きゃっ!」
「わあっ!?」
それに2人分の悲鳴が続き、ミリィは音の先を追いかける。
シエラとリズベルのカップが、紅茶を撒き散らしながらテーブルの上に転がっていた。2人の指先に摘まれたままのカップの取手と、取手をなくして転がるカップが、何が起きたのかを如実に示している。
「2人とも、大丈夫……!?」
慌ててカップを置き、ミリィは驚きで固まる2人に声をかけた。
「あ、……だ、大丈夫です。びっくりしたあ……」
「何もなかったの? 紅茶が腕にかかったりは……」
「はい、急に取手が外れて……。欠陥品にあたっちゃったみたいですね、私たち」
困った顔で笑うシエラの言葉に、リズベルも苦笑いで頷く。幸い2人に怪我はないようだ。
安堵の息を吐き、ミリィは片手を上げてメイドを呼んだ。
テーブルの簡単な清掃を頼まなければならない。ついでに、ティーセットの提供主に文句をつけるよう、伝言でも預けてやるつもりだった。