15 生徒会室にて
クリームとミリィの戦いは、それはもう壮絶なものだった。
1限目の飛行術では少しでも動けば吐き戻しそうな中で神がかったバランス感覚を披露し、薬品の匂いが吐き気を刺激する魔法薬学では鼻呼吸を封印。
昼食も水一杯で済ませてとにかく安静に努め、そうした努力の甲斐あって、ミリィはこの日の授業を終えることができたのだった。
(友達……! 仲間……! 尊敬の眼差し……!)
未だにお腹の中でクリームは荒ぶっているが、これで生徒会の集まりに参加できる。
(生徒会室は3階だったかしら。早く行かなきゃ――)
そう脳内の地図を広げたところで、1人廊下を歩いていたミリィは、予備動作なく突然右手を背後に伸ばした。
「は」
「……あ、なんだ。ギルバート」
振り返ったミリィの右手には、たった今、自分の肩を叩こうとしていたギルバートの手が握られている。
その手を離すと、ミリィは不満げに言った。
「用があるなら、叩くんじゃなくて声をかけてくれる?」
「あ、……ああ、……なんで声をかけてもないのに気付いたんだ?」
「気配がしたから」
シンプルな答えに、ギルバートが納得したように目を細める。
ミリィは、幼少期から他者の気配に敏感だった。
おかげでかくれんぼで鬼になろうものなら無双状態で、そのあまりの強さに何度かギルバートを泣かせたものだ。流石に、背後から迫る人影には気が付く。
「それで、なんの用?」
「あ、……いや、一緒に行こうと思って。生徒会室に向かうんだろ?」
そう言うと、ギルバートはごく自然な所作でミリィを壁際に導いた。
(……そういえば、ギルバートも生徒会役員になったのだっけ)
この辺りも巻き戻り前と一緒だ。
断る理由もないと頷き、ミリィは再び歩き出した。
「ルキウスはいないのか?」
「先生からお呼び出しですって。彼、授業中に眠りこけて随分怒られてたから」
「……あいつ大丈夫なのか……?」
ギルバートが訝しげな顔で言う。多分大丈夫じゃない、とミリィは思った。
「さあね。本人的には『退学にならなきゃ勝ち』なんだって」
「……お前、もうちょっと付き合う人間を考えたほうが良いぞ」
ルキウスもあれで結構面倒見がよかったりするのだが、彼の主君たる第二王子からの評価は散々らしい。
ギルバートはやけに熱を入れて続けた。
「良いか、ミリィ。あいつに甘いことを言われてもほいほい乗っちゃだめだ。それがルキウスの手口なんだぞ」
「甘いことって?」
尋ねると、ギルバートは「え?」と僅かにたじろぐ。
「あ、あー……それはあれだ、お前の髪がどうだとか、まるで何とかって妖精みたいだとか……」
「ふうん。他には?」
「えっ、あ、えっと、何だ、声色が心地良いだとか詩を送ってみたりとか……」
「ふ。……ギルバートの口説き文句はそれなのね」
「はあっ……!?」
途端にギルバートの顔が真っ赤に染まり、ミリィは笑いを堪えきれなかった。
からかわれていたことに気付いたのか、ギルバートは目をつり上げて捲し立てる。
「人がせっかく心配してやってるのに……!」
「ふふ、ごめんなさい。わかってるわよ」
「っ、とにかく! ルキウスと関わるなら気をつけろって話で――」
「はいはい、それもわかった。うっかり詩を送られないように気をつけるわ」
「ミリィ……!」
懇願するように名を呼ばれ、ミリィは今度こそ声を上げて笑った。
ギルバートのからかいやすさは10年前と全く変わっていない。世間で評判の第二王子も、ミリィにとってはまだ泣き虫な少年のままだ。
(……よかった、ギルバートが生徒会にいてくれて)
数年ぶりに会話をしたあの日から過保護ぎみなのは気になるところだが、彼がいれば、とりあえず肩身の狭い思いはしないで済みそうだ。感謝を込めて、ギルバートには必殺の話題として温めてある王都で一番美味しいスイーツのお店の情報を教えてあげてもいいくらいである。
「ねえギルバート、あなたプリンタルトに興味はある?」
「は、はあ……? 何だ急に」
そう脈絡も前提もない話をミリィが持ち出したところで、2人はちょうど生徒会室の前に到着した。
ギルバートが重厚な茶色の扉を躊躇いなく開くと、大きな窓から差す陽射しが瞳を焼く。
長方形のテーブルとやけに高価な調度品が目を引く室内には、既に2つの人影があった。
そのうちの1人、上座に腰掛けた男子生徒が、ミリィを見て僅かに目を見開く。
「あれ、君は……」
黒髪の、どこか野暮ったい雰囲気を持つ男子生徒だ。
学年毎に色の違うスカーフが青い色をしている、ということは、2年生なのだろう。当然ミリィに見覚えなどあるはずないが、ただ1人高そうな椅子に座っているあたり、家格の高い人間に違いない。
ミリィがそこまで考察したところで、男子生徒はやや気だるそうに口を開いた。
「……公女様が生徒会に入るって話、本当だったんだ。またエドガーがデマ喋ってるもんだとばかり」
「だから言ったでしょ。会長、これからサボれなくなるね?」
『会長』と呼ばれた生徒の左隣には、輪郭の細い男子生徒が足を組んで座っている。こちらもスカーフは青い。2年生だろう。
(輪郭細男、『会長』……。うん、覚えた。初めましての人ね)
たった今つけた安直なあだ名を頭でなぞる。人の顔と名前を覚えるのが極端に苦手なミリィにとって、2人もの人間を一度に覚えるのはやや根気がいるのだ。
「ニコラス、エドガー。もう来てたのか」
「えっ」
そう1人奮闘していると、隣のギルバートが親しげに挨拶をし、ミリィは思わず声を上げた。
「? どうしたミリィ」
「いや、……役員の方々と知り合いなの?」
「ああ。というか、お前もパーティーで会ったことくらいあるだろ。まさか忘れたのか?」
ぽかんとした表情で言ったギルバートに、ミリィは奥歯を噛んだ。
「……私より優位に立ったなんて思わないことね」
「は?」
まさか幼なじみに先を越されるとは思わなかった。……これは早急に友人を作らなければミリィの尊厳に関わるやもしれない。
そう闘争心を燃やしつつ『会長』の右隣に腰掛けると、向かいの輪郭細男が、待ってましたとばかりに口を開いた。
「やあ公女様、ご入学おめでとうございます。お久しぶり……って言っても、俺のことなんて覚えてないかな」
柔和な雰囲気が滲み出る、穏やかな声だ。
ミリィはそうにこやかに笑う彼を見やり、表情ひとつ変えず頷いた。
「うん、知らないわ。私たち面識があるの?」
「……そんな堂々と覚えてない宣言されるとは思わなかったな」
「あ、……傷付けたならごめんなさい。私、人の名前と顔がいつまで経っても覚えられなくて」
『ヒロイン』ことシエラの名前だって、寝る前に10回は唱えてやっと覚えたくらいだ。今まで勉強漬けだったせいか、ミリィの頭は寝て起きたら勉強以外のことを忘れるようにできてしまっている。
「いやいいよ、面識って言っても挨拶程度だし。俺、生徒会副会長のエドガー・フランスタです。覚えてね」
輪郭細男がウインクと共に名乗り、ギルバートが顔を顰める。
(……フランスタ?)
それらを全く気にせず数秒押し黙ったミリィは、やがて「ああ」と声を上げた。
「フランスタって、……魔法伯の?」
「あれ、知ってる?」
「うん。……この間の、ニール様のことは残念だったわ。病だったとはいえ、あとひと月で100歳だったと聞いたし……」
「……祖父のことを覚えてるなら俺のことも覚えておいてほしかったけどな」
エドガーが苦笑いを浮かべて言った。ルキウスにも似た文句をつけられたような気がする。
国で唯一魔法伯の爵位を持つフランスタ伯爵家は、魔法が跋扈するアビリア王国を支える立役者として重宝されている家だ。魔法と勉学に全てを割いてきたミリィにとっては、憧れにも等しい存在と言っていい。
つい最近亡くなったニール元伯爵の葬式にも出席したくらいだし、どうせ時が巻き戻るなら、彼が亡くなる以前に戻してほしかったものである。
「えっ、……じゃあもしかして僕も覚えられてない?」
2人の会話を耳にしたのだろう。今度は『会長』が顔を引き攣らせて言う。ぼそぼそと喋る声がどうも聞き取りづらい。
「えっと、申し訳ないのだけど……」
「ええ、マジか〜……。僕、2年くらい前のパーティーで結構勇気出してきみに挨拶したんだけど……」
「ごめんなさい。よければもう一度勇気を出して頂ける?」
「……可愛い顔ですごいこと言うなあ」
改めて『会長』の顔をまじまじと見てみるが、やはり見覚えはない。
なんならハーフアップにまとめた首元まで伸びる髪が野暮ったいし、フレームの細いメガネや長い前髪も、陰鬱さを加速させていて鬱陶しいなという印象しか湧かなかった。
(でも上背は高そうだし、筋肉質だし……。実力者に見えなくもないけど)
ただ、この人が生徒会の会長だと考えると、ミリィは何だか心配になってくる。
「あの、……2年A組の、ニコラス・アインツドール。一応生徒会長なんだけど、……ほぼお飾りだから。仲良くしてね」
アインツドール。聞き覚えがあるようにも思えなくない。
ミリィが頭を捻ると、ミリィの隣に腰掛けたギルバートがすかさず補足した。
「ニコラスは公爵家の長男だ。俺の遠い親戚にあたる」
「……ああ、なるほど……?」
「絶対ピンと来てないよねこの子」
確かにピンとは来ていないが、来ていたとて彼のことは知らないのだから同じようなものだ。ポジティブ思考がミリィの取り柄である。
(生徒会は私含めて6人って話だったかしら。ニコラスとエドガー、それにギルバート、今はいないルキウスと私がいて、あとは……)
指折り数え、ミリィはふむと頷いた。
ここにいるのは4人。ルキウスをプラスすれば5人。他に誰か、知らない生徒会役員がいるはずだ。
(できれば同級生だと嬉しいのだけど。……それは望みすぎかしら)
3人の他愛のない会話を耳にしつつ、ふと考える。
生徒会室の重たい扉が音を立てて開いたのは、そんな時だった。