◆12 幸せになる権利
時が巻き戻ってから数日。
悪役令嬢アンジェリーナ・グレイは、ただひたすら自室にこもっていた。
その姿は周囲には異様に映ったことだろう。まともに食事すら取らず、空腹で部屋を出たかと思えばパンを数個手にしてさっさと戻ってしまう。
心配した両親の呼びかけに応じることもなく、結局アンジェリーナが姿を現したのは、グランドール魔法学園の入学式が行われる日の朝だった。
侍女たちはまず、1週間近く身体を拭くことすらなかったアンジェリーナを風呂で磨くことに苦労した。
引きこもりで髪や肌にこびりついたにおいをどうにかせねばならないが、入学式まで時間もない。
周囲が大騒ぎしながら準備を進める中で、ただ1人、アンジェリーナだけは焦ることもなく手元のノートを見ていた。
(……入学式は、『ヒロイン』のシエラとギルバートが出会うイベントがある……)
悪役令嬢アンジェリーナ・グレイは、世界の行く末を知っている。
なぜなら、ここが前世でプレイした乙女ゲームの世界であるからだ。スチルやイベントの回収のため何度も何度もゲームをプレイしたアンジェリーナには、この世界で生きていく上でのアドバンテージがある。
(やっぱり、時系列順にイベントをまとめておいたのは正解だったわ。計画が立てやすくなる)
自室に引きこもる中で、アンジェリーナはそんなゲームの記憶を全てノートに書き込んでいた。
起こるイベントはもちろん、攻略対象のプロフィールや交友関係、好感度を上下する選択肢の正解も覚えている限り全て書き込んだ。
これがあればまずアンジェリーナが失敗することはないだろう。巻き戻り前もギルバートとは結ばれてもおかしくないほど親密になったのだから、あとはもう同じようにうまくやれば、今度こそハッピーエンドを迎えられるに違いない。
(……念には念を入れるべきかしら。シエラとギルバートの出会いイベントを潰せたら最高よね)
これから行われる入学式では、ヒロインのシエラと、メインの攻略対象であるギルバートの出会いイベントが存在する。
場所は学園の裏庭だ。鳥にスカーフをさらわれたシエラをギルバートが魔法で助けるという内容で、ゲームでも気合いの入ったスチルが用意されていたシーンだった。
(何かの間違いでシエラがギルバートと結ばれたら最悪だし……。イベントの類は潰せるなら潰しておきたいけど)
そこまで考えて時計を見やり、アンジェリーナは舌を打った。
あのイベントが行われるのは入学式前なのに、メイドがのろのろと準備をしているせいでまず間に合いそうにないのだ。
「ねえ、もっと早く手を動かせないの? 待ちくたびれたわ」
「も、申し訳ございません……」
「本当使えない……」
出会いイベントを潰すのは諦めた方が良いだろう。奥歯を噛み、アンジェリーナは思考を切り替えた。
大丈夫、まだ猶予はある。
前世の記憶とこのノートがある限り、世界はアンジェリーナの思い通りに進むのだ。
そう、思っていたのに。
「……は?」
予想だにしなかったことが起きた。
(なんで、シエラとギルバートが一緒にいるの……!?)
入学式が行われる教会に足を踏み入れたアンジェリーナは、目にするはずがなかったものを捉えていた。
出会いのイベントを終えたはずの2人が、何故か教会内を一緒に歩いているのだ。
(ありえない! だって、出会いイベントの後2人が再会するのは学園の授業が始まってからで……)
アンジェリーナの記憶は絶対だ。なのに、今一緒にいるはずのない2人が並んで歩いている。
(何が起こってるの……?)
背に冷や汗が流れるのを感じ、アンジェリーナはわなわなと震えた。
おかしい。何か、自分の知らないところでイレギュラーが起きている。
(……シエラにギルバートを取られるのだけは阻止しなくちゃいけないわ。これから起こるイベントを頭に入れておかないと……)
拳をきつく握り、アンジェリーナは唇を噛んだ。
ギルバートと結ばれるのは自分だ。そのためにも、もう一度記憶を洗い出しておかねばならない。
故にアンジェリーナは、何度も聞いた乙女ゲームのオープニングがパイプオルガンで演奏される中でもこれからのゲームの展開を思い出していた。
今日の入学式の後、まず直近で行われるイベントは、新入生と上級生の交流を目的としたティーパーティーだ。
そこでシエラは1学年上の攻略対象――公爵家の長男で生徒会長のニコラスと出会う。
(そこでニコラスに気に入られたシエラは、生徒会に勧誘されて他の攻略対象と出会うわけだけど……)
ゲームでのシナリオと違って、巻き戻り前のシエラは生徒会に所属しなかった。
そもそもニコラスと出会うことがなかったからだ。ティーパーティー中、アンジェリーナはシエラと共に行動し、出会いイベントそのものを回避させたのである。
(……今回もティーパーティーでは一緒に行動した方が良さそうね。生徒会なんてものに参加させたら、それこそシエラとギルバートが親密になっちゃうし)
とにかく一番避けたいのはシエラにギルバートを掠め取られることである。そのルートさえ回避すれば、後はもうヒロインに用はない。
(ミリィ・アステアラの出番は最終盤だし、とりあえず今年中は放っておいていいわよね……)
そう目星をつけ、アンジェリーナは小さく息をついた。
壇上では、学園長がゲーム内で何百回と聞いたスピーチを行っている。テキストのスキップ機能がなかったせいで二周目以降はボタン連打を強いられる羽目になったそれだ。
あの時ばかりはゲームに文句をつけたものだが、今は違う。
何せ今の自分は悪役令嬢のアンジェリーナだ。有象無象のプレイヤーたちと違って、攻略対象たちと『本当に』結ばれる権利がある。
(……幸せになるのは、ヒロインのシエラでもラスボスのミリィでもないんだから)
沸々と湧く決意を更に固め、アンジェリーナは口元に笑みを浮かべた。
(『悪役令嬢』のあたしが幸せになるのが、転生もののお約束でしょう。誰にも邪魔させない……!)