2.愛人契約
妹のイヴリンの言葉に思わず悲しみの気持ちがあふれ出してしまって、つい自室で泣き崩れてしまった私だったが、しばらくするとやっと気持ちが落ち着いてきた。
悲しい気持ちはもちろん残ったままだけど、良い事ではないけど、こういう残酷な仕打ちにも慣れてしまった。
打たれ強いのではなくて、単に人生を諦めてしまっただけ。
あるいは悲しみで心の容量が一杯になってしまって、もう悲しさが心に溢れて入らないだけなのかもしれないけど。
とにかく、お湯を頂く。
「ああ、2日ぶりのお風呂は気持ちがいい……」
お風呂と言っても、屋敷にある大浴場を使用する訳ではない。
自分でお鍋にお湯を沸かして、それを盥に注ぐ。
それを繰り返してお風呂にするのだ。
普通のお風呂を使用することは、家族から禁止されているし、もうそれが当たり前だと思っていて疑問にすら思えない。
つまり、私がイヴリンに取った許可というのは、本当にお湯を使わせてもらうことなのだ。
部屋に鍵などないので、皆が寝静まって誰も入室しない時間帯にひっそりとお湯に入る。
何度も厨房と自室を行き来するので、お湯は冷めているが、微かに温かいのが救いだ。悲しいことにそれくらいしか、私の心を温めてくれる存在は、人生において他にない。
本当ならば着付けなども使用人にお願いしたいところなのだけど、イヴリンのいうことを聞く使用人しかいないこの屋敷で、私を手伝ってくれる使用人などいない。
いえ、むしろ、構ってこない方が安心だ。
一度、なぜか親切な使用人がいて、とても仲良くしていたのだが、ある日から突然無視や嫌がらせをされたのだ。
それは私の心をズタズタにするほどショックな出来事だったのだが、後からイヴリンの手の込んだ嫌がらせだと分かった。
友達のいない私と仲良くなって、それから裏切らせて、私が悲しむのを楽しんでいたのだ。
さすがの私も、
「い、いい加減にしてよ! こんな嫌がらせ絶対にやめて!」
と、訴えたが、イヴリンはお父様とお義母様に言いつけて、
「お姉様が使用人が離れて行ったのは私のせいだと難癖をつけてくるの! 自分の日頃の行いが悪いのを棚に上げて」
「なんと酷い娘だ! 容姿だけでなく、心まで醜いとは」
「本当ね。まったくクレアなんていうあばずれの娘だけあるわね。心底卑しいこと! まだまだお仕置きが必要なようね」
そう一方的に私が妹に罪を押し付けようとしたということになって、地下牢で3日間、食事抜きという地獄のような日々を送ることになったのだった。
お母様のことも侮辱されて悔しかったけど、それも涙を呑んで耐えるしかなかった。
お父様とお義母様からそれ以上の罵詈雑言を、今は亡きクレアお母様に浴びせかけられてしまうからだ。
私だけでなく、大切なお母様まで汚されるのは耐えられない。だから、地下牢で罪人のようにみじめに泣く事しかできないのだった。
そんなことがあったので、もはや使用人すらも信じられなくなってしまって久しい。
一人が一番安心というのが今の状況なのだった。
本当にここは自分の家なのだろうか?
「ああ……誰でもいいから、私を愛してくれる人はいないの……?」
先ほど泣き腫らしたばかりの瞳から、またポロポロと涙が冷たくなり始めたお湯に落ちた。
お湯から上がって、就寝用のネグリジェを身にまとう。
もう寝てしまおう。
夜起きていても嫌なことばかりを考えてしまう。眠ってしまえば何も考えずに済む。
「そうすれば、こんな人生でも、少しは早く終わってくれるはず」
そんな気持ちで寝床につく。
その時でした。
『コンコン』
私の部屋の扉をノックする音が響いたのです。
「だ、誰?」
こんな時間に訪ねてくる人などいないはずです。そういう時間を選んで湯浴みをしたのですから。
しかし、
「僕だよ、開けてくれないか。急用なんだ、シンシア」
それは吸血鬼であり、妹の番であるレナード様の甘い声でした。
「きゅ、急用ですか? 何の御用なのでしょうか」
当然、警戒して返事をします。しかし、
「急用と言ったら急用なんだ。伯爵令息であり、幻想種高位たる吸血鬼の僕がそう言うのだから、お前のような女は黙って扉を開ければ良い」
吸血鬼はその種族特性として、招かれない場所には入れない、という性質があります。
しかし、この家で実質的に最下級である自分が、上位者の彼の要請を断り続けることは出来ません。こんな夜に、しかも夜着に着替えている状態だとしても、彼が急用で扉を開けろと言えば、それがどれほど女である私が屈辱に満ちた気持ちをはらむものだとしても、拒む権利を持ち合わせていないのでした。
ネグリジェの上にカーディガンだけを羽織り、仕方なく扉を開けます。
「ははは。簡単に開けたね。こんな夜更けに男が訪ねてきて簡単に扉を開けるなんて、一体どういう頭をしているんだい」
「違います。急用だとおっしゃるから……」
「はは、そういうことにしておいてやるよ。お、臭いも少しはマシになったようじゃないか。もしかして期待しているのか?」
「そんな訳ないでしょう!」
臭いのことまで言われて、いい加減、恥辱に震えて涙が出そうになります。
女をこのように弄って、何が楽しいのでしょうか。
と、そんな風にしているうちに、レナード様は部屋へと入ってきます。
「いやいや、本当に急用なのさ。改まっての、相談というのかな?」
「相談?」
一体、なんの相談だと言うのでしょうか。
「単刀直入に言おう。シンシア、お前を僕の愛人にしたい」
「え?」
私は驚くとともに、目の前の男性の顔を見てしまいます。
背後には月が妖しく光り、その光芒を背にしながら吸血鬼特有の血のように赤い瞳が妖しく炯炯としていました。
その姿は本当に美しく、魅力的な甘い声は耳朶を震わせます。世の中の女性を魅了する全てを兼ね備えているように思わざるを得ませんでした。
私はたちまちぼーっとなります。酷い事ばかりを言う男性なのに、どうしても彼を前にすると、気が遠くなるような気持ちになるのです。
「何を言って、いるんですか……。昼間も。それに毎日。あれほど私を酷い言葉で弄んでいるのに……」
やっとの気持ちでそれだけ反論します。
でも、なぜか心はフワフワとしているのです。不思議な気持ちでした。
「番のイヴリンの前だからね。だが、シンシア、お前も愛人としてなら、愛してやってもいい。出涸らしの出来損ない。すべてにおいて妹に劣るお前だが、手すきの時の慰みに、愛してやっても良い」
とても酷い、私のことなど都合の良い奴隷程度にしか思っていない辛辣な言葉でした。
でも、それでも。
愛してくれるならそれでもいいのではないか、と。
月の光と彼の赤い瞳の妖しい光芒。
それを見ながら彼の言葉を聞いていると、彼の『愛人』になることがとても甘美な響きとなって、私の胸に響いたのでした。
「あ、愛人になれば、愛してくれるのですか?」
「もちろんさ」
ああ、だとすれば。
もうこんな寂しい、つらい、息苦しい、心の渇いた生活を送らなくてよくなる。
愛人でもなんでも良い。
私を愛してくれるなら……。
そう思い、彼の言葉に頷こうとした時、
「あら、まさかお姉様が人の男を……。しかも番がいる殿方に、不貞を働こうとするなんて、思わなかったわ」
開け放たれた背後の扉の方から、妹のイヴリンの声が響き、私は思わず喉から悲鳴じみた声を上げたのです。
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