嫉妬と越えられない一線
「子どもの体力は無尽蔵ですね」
額に汗を掻き、息を切らせたディーン様が私の隣に腰を降ろした。侍女に水を注ぐように言い差し出すと「ありがとうございます」と受け取り喉を鳴らして飲み干す。
首筋を伝う汗にドキリとして、タオルで拭いた。
「すみません」
「身体を動かすと暑くなりますからね。ハーブルムは気候が穏やかなので運動のあとは結構汗をかきますわ」
「そうですね。……でも、身体を動かしたのは久しぶりです」
未だに兄弟仲良くはしゃぎまわっている二人を見ながら、ディーン様は目を細めた。
「かわいいでしょう」
「そうですね。……母上をよく慕っていらっしゃるんですね」
「……?そうですね。あの子たちは母であるミアの事が大好きですよ」
「えっ」
「えっ」
ディーン様は目を見開いて私を見ている。
あ、これはもしかして。
「あの子たちはミアと陛下の息子ですよ」
「あっ、そう、なんですね。失礼致しました。てっきり第三夫人様のお子様かと……」
やってしまった、と言わんばかりに冷や汗をかいているけど、まあ何の説明も無かったから勘違いしても仕方ないのかな?
それにしても。
「そろそろ第三夫人、という呼び名を改めませんか?私の事は『ミリアナ』と呼んで下さい」
これから仲を深めたい意思は別としても、案内する上でよそよそしいのも寂しいし。
「しかし……」
ディーン様は戸惑っているけれど、やがて居住まいを正した。
「分かりました。ミリアナ……様。私の事も、ディーンとお呼び下さい」
「ではあなたの事はディーン様と呼びますね」
「様はいらないです。ディーンだけで」
「ではあなたも様は取りましょう」
「えっ、でも、そういうわけには……」
慌てるディーン様を見て、なんだか、ふふって思わず吹き出してしまった。
「身分などはお気になさらず。ハーブルムでは筆頭夫人以外はその辺の貴族とたいして変わりません」
「そ、そうですか……。……でも、やはり公私の区別はしないといけませんから、様を付ける事はお許し下さい」
「分かりました。そういう事でしたら私も様を付けますね」
ディーン様は不服そうな顔をしたけれど、主従でも無いし、多分これで良いんだ。
私はディーン様を好ましく思っているけれど、ディーン様は私の事なんて気にしてないものね……。
「ミリー!水!」
「ハイル、待って!」
幼子たちが息を上げながら駆け寄ってくる。
ようやく休憩する事にしたようだ。
「ほらほら、慌てないで」
侍女から受け取ったグラスを、ハイルは奪うようにして手に取り傾けてごくごくと飲み干した。
落とさないようにグラスに手を添えて、端からこぼれている水をハンカチで拭う。
傍らでルトフィも侍女から水を受け取り、喉を潤した。
「ぷひゃーっ!水おいしい!」
口の周りを濡らし、服さえ濡らしているハイルは、まるで麦酒を飲み干したおじさんのようにごきげんになる。
ハンカチでは追いつかないくらい濡れてしまったので、侍女に着替えを持って来てもらうようにお願いした。
「いっぱい遊んだわね」
「楽しかった!」
ニコニコご機嫌なハイルの額をタオルで拭い、落ち着いてからルトフィの汗も拭う。
ご機嫌に何かを話しているハイルの着替えをさっと済ませると、落ち着いてきたのか膝に座って甘えだしてきた。
そのまま抱っこして、背中をぽんぽんしていると、すぐに寝息が聞こえ始めた。
「……手慣れているんですね」
「ミアは筆頭夫人になって忙しくなったでしょう。私は暇があるから子どもたちの相手を引き受けてるんです」
「子どもたちもよく懐いていらっしゃる」
私の胸に顔を預け、ハイルはよく眠っている。寝付きいいのよね。
私の隣に座っているルトフィも、頭をもたれさせてウトウトしだした。
「……ああ、こういう事なのかな……」
「えっ?」
ディーン様がポツリと呟き、私の方をじっと見つめてきた。
視線が絡まったまま、身動きが取れない。
やがてそのまま、顔が近付いて来た時、頬にポツリと水滴が落ちた。
「……っ、すみません……!」
我にかえったディーン様が、慌てて顔を引き剥がし距離を取った。たった一雫、けれどそれは芽生えかけた熱を奪っていくように私たちを遮った。
やがて一雫は量を増し、朝言った通り雨となる。
私はハイルを抱っこしたままルトフィを起こすが寝起きが悪いルトフィは「うぅ〜ん」と唸ったまま動かない。
私はハイルを抱っこしてるし、侍女も抱っこは難しいだろうからルトフィには歩いてもらいたいのだけど。
「よろしければ私がお連れしましょう」
ディーン様が提案して下さったので、私はそれに遠慮なく甘える事にした。
「ルトフィ様、失礼致します」
一声かけて、ルトフィを横抱きにするディーン様。さすが男性の力は頼りになるわね。
雨脚が強くなってきたのでそのまま宮殿内に急いだ。
先程着替えさせたけど、このままだと風邪引くからまたお着替えね。
「ミリアナ姉様!風邪引きますわよ」
ちょうど休憩時間になったのか、ミアが私たちに向かってやって来た。
「お外で遊んでたら雨が降ってきちゃったのよ。二人とも寝てたから少し濡れてしまったわ」
「ありがとう、姉様。あとは任せて、姉様も着替えてらして」
寝ているハイルをミアが抱っこすると、先程まで感じていた重みと温もりが離れて少し寂しくなった。
「ディーンもありがとう。ルトフィはこっちの部屋にいいかしら」
「分かった」
気安いやり取りに、胸の奥がずぅんと重くなる。
分かってる。二人の間に何も起こりようが無い事なんか。
ミアが陛下を裏切るはずがないし、ディーン様も過ちを繰り返す事はしないだろう。
けれど、頭では分かっていても、蚊帳の外の私には何も言えない。
「っくしゅっ」
ぶるりと震えが来てしまった。
私はその場を重い足取りで離れて自室に向かった。
大丈夫よ。
なんでもない。
そう言い聞かせながら歩幅を大きくする。
「ミリアナ様!」
思いがけない声が響いて、振り返るとディーン様が追いかけてきていた。
「なに」
出てきた言葉が冷たい音は、身体が冷えたせい。
「……あの…、着替えたら、お茶でも、と……」
ディーン様はお客様なのだ。
そうか、身体が冷えたから、お茶を。
そういった気遣いができず、失礼だったわね。
「分かりました。侍女に言ってお部屋に運ばせます」
一礼して、再び歩き出す。
けれど。
「…っ、待ってください」
後ろから手を取られた。
今は一人になりたい気分なのに。
「お離しください。私は……まだ…」
ハッと息を飲む音がして、ディーン様は私の手を放した。
「すみません、あとは侍女に言っておきますので。今日はゆっくりとなさってくださいね」
できるだけ微笑んで、その場を離れる。
ディーン様はもう追い掛けては来なかった。