第40話 疲弊する心
───王城の池の畔で、蜂蜜色の髪の毛を温かな風になびかせた幼い少女が座りながら、辺りに咲いている野花を摘んでいた。
カサリと草を踏む音に、池の畔で座っていた六歳になったばかりのレティシアは音のした方へ振り向く。
『レティ、一人でここにいたのかい?』
『ジル』
待ち焦がれた相手が来た事に、レティシアは満面の笑みをジルベルトへ向けた。
そんなレティシアに柔らかい笑みを返したジルベルトは、レティシアの隣へ腰を下ろす。
『一人でこんな所で何をしていたの?
母上や公爵夫人がお茶を楽しんでいるガゼボには、美味しいお菓子も沢山用意してあるのだよ?』
『ガゼボにジルが居なかったから、ここに来たらジルに会えると思って待っていたの』
レティシアにとってジルベルトは、一緒に居ると安心し、緊張せずに関われる数少ない存在の一人であった。
レティシアの話を、いつも穏やかに優しい笑みを浮かべながら急かさないで聞いてくれる事が彼女は嬉しかった。
ジルベルトはレティシアの手元へ目を落とす。
『それは?』
『これはね、ジルへのプレゼント』
『プレゼント?』
レティシアは、そっと花の冠をジルベルトの頭の上に乗せた。
『もう少しで、立太子の儀式があるのよね?
お父様から聞いたの
だから、お祝いのプレゼント
だけど……、ジルは今以上に王国でも外国でも、みんなの王子様になってしまうのね……』
『レティ?』
『とっても素晴らしい事で嬉しいけれど……、少し淋しいなって……
今よりももっと、忙しくなってしまうのよね?
こうして、一緒にお話もあまり出来なくなってしまうのかな……って、考えたら淋しくなっちゃったの……』
そんなレティシアの言葉に、ジルベルトはふわりとレティシアの頭を優しく撫でる。
『忙しくなるとは思うけれど、レティとこうして会う時間を減らすなんて事は絶対にしないよ?』
『でも、そうしたらジルのお勉強する時間や、お休みする時間がなくなってしまうわ
そんなの駄目よ!』
『さすがに勉強する時間は減らせないけれど、私にとってレティと過ごす時間こそが休息の時間なのだから、今までと何も変わらないよ』
『本当?』
『当たり前だよ
私の方が、もっと多くレティとは会いたいのだからね』
ジルベルトの言葉に、安堵と嬉しさの笑みを溢したレティシアの手をジルベルトはそっと握る。
『私からもレティにお願いをしてもいい?』
『お願い?』
ジルベルトは、レティシアの指に今作った花の指輪をそっとはめ、手の甲へ口付けを落とす。
『レティが社交界デビューが出来る歳になったら、私の守護石の指輪を君のこの指にはめさせてくれる?』
『守護石の指輪……?』
『レティシア·ハーヴィル嬢、私ジルベルト·オーガストラの未来の花嫁になってくれますか?』
『私をジルのお嫁さんにしてくれるの?』
『レティ以外で、私のお嫁さんになって欲しい存在なんて私にはいないよ
レティの返事を聞かせてくれる?』
『うん!嬉しい!
ジルと今よりももっと、ずっと一緒にいられるのね』
『レティが感じている気持ちと私の気持ちはきっと少し違うと思うけれど、今はまだその返事で構わないよ』
そんな無邪気なレティシアの言葉にジルベルトは、今はまだその想いでも構わないけれどと、少し困ったような笑みを浮かべた。
その時、幼い二人を囲むように風が吹き付け、辺りに花びらが舞う。
『きゃっっ!?』
レティシアの隣にいたジルベルトの姿が舞い散る花びらで見えなくなり、気が付けば辺りは暗闇で囲まれていた。
レティシアが自分の姿に目を落とすと、いつの間にか社交界デビューの時に纏っていたドレス姿の自分にレティシアは気が付き、はっとした彼女は隣に居るはずの存在を探した。
『ジル……?』
近くにジルベルトが居ない事に不安が募った時、後ろから名前を呼ばれる。
『レティ』
『ジル………っ……』
レティシアが振り向いた時、目に映ったのはエリカを抱き寄せているジルベルトの姿で、レティシアの胸がズキリと痛んだ。
そして……、ジルベルトの言葉に……
『君とは婚約出来ない
私は、本当に大切な存在と出逢ったのだよ
だから……
君はいらない……』
『ジル……?』
『レティシア様、私達の事を祝福してくれますよね?』
『どうして……? 私の事を愛しているって……』
『私が愛しているのは君ではないよ……』
『嫌……、ジル……行かないで!!』
自分へ背を向けるジルベルトの姿に手を伸ばしても、レティシアの手は彼には届かない。
そして、次にレティシアの耳にはゾクリとする声が届いた。
『君の運命の相手は彼ではないよ
運命の相手は───』
その声に、恐怖でレティシアが目を見開くと、そこは夜の闇の中で月の光に照らされる自分の私室の寝台の上であった。
心臓がバクバクと音をたて、涙は沢山零れ落ちていたのか枕が濡れている。
自分の手の甲を口許にあて、今まで見ていたのは夢であったのだと思った。
小さく息を吐くと、うつ伏せに身体の位置を変え枕に顔を埋めた。
それは、次から次へと流れ落ちる涙と嗚咽を隠すように──
◇*◇*◇
レティシアが王城でルドガーから魔術を使われた日から数日後の朝、ハーヴィル公爵邸の食堂には、レティシアの母親で公爵夫人のセシル、兄のアランそしてレティシアが朝食をとっていた。父親で宰相でもあるハーヴィル公爵のクライブは、早朝に登城しており今日は朝から顔をあわせてはいない。
レティシアがフォークを置き、ナフキンで口許を拭く姿を見た母親のセシルは彼女に言葉を掛けた。
「レティ、もう食事を終わりにするの?」
「あ……、はい……
もう、お腹が一杯だから……
残してごめんなさい……」
レティシアの皿の上のものは、殆ど何も減ってはいなかった。
添えられたデザート皿に乗ったブドウ数粒と紅茶を口にしただけの状態に、母親の顔はより心配そうな色が濃くなる。
「レティ、昨夜もねお父様とお話していたのだけれど、貴女が辛いのであれば学園を暫く休んでも構わないのよ?
今、貴女の周りで起こっている事は殿下やアランから聞いているわ
私達は、貴女の身の安全もそうだけれど、心が一番心配であるの」
「お母様……」
「レティ、無理する事はないのよ?」
「私は……」
母が自分の事をとても心配してくれている事がレティシアには痛いほど伝わってきた。
それは父も兄のアランも同じであり、そして誰よりもジルベルトが一番大きく自分の事を心配し気にかけてくれていた。
母親の言葉を聞いて、レティシアは自分は周りに心配を掛けて何をやっているのだろうかと苦しくなった。
あれから自分を取り巻く環境への不安等から、レティシアは眠る事も食べる事も殆ど出来なくなっていたのだ。
母親が言った学園を休むという言葉に、レティシアの胸の中では不安が大きく膨らむ。
学園を休みルドガーと顔を合わせない事は穏やかに過ごせるかもしれないが、そんな事よりも自分の居ない学園でジルベルトとエリカが顔を合わせる事を考える方が、大きな不安を感じたのだ。
「お母様、心配させてしまってごめんなさい
だけど、私は大丈夫
それに、学園には行きたいの……」
全く大丈夫ではない表情でそう語るレティシアの姿に、母親のセシルもアランも複雑な表情を浮かべた。
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