第10話 クッキー
一年生の学年棟まで、ジルベルトに送ってもらったレティシアが、自分の教室へ向かおうとした時に自分の名前を呼ばれた。
その声に、ドクンと心臓が鳴り身体に緊張が走る。
「ハーヴィル様、おはようございます」
「おはようございます……、シュタイン様……」
「同じクラスメートなのですから
エリカと名前で呼んでください」
「あ、それなら私の事も名前で……、呼んでください……」
「はい! ありがとうございます!
レティシア様と、ずっとこんな風にお話をしたかったんです
あと私、レティシア様にお願いしたい事があったんです!」
「お願いしたい事……?」
レティシアは、強張る表情のなか頑張ってエリカへ笑みを作る。
こんな風に、直接エリカと沢山話しをする事は今日が初めてであった。
今まで席が前後であるのにもかかわらず、必要最低限でしか話す事をしないようにしていたのだ。
あの書物を読まなければ、彼女とはクラスメートとして普通に接していたかもしれないのに、あの書物のせいでレティシアは逃げ出したい気持ちで一杯であった。
本当は、彼女とずっと関わらないでいたら、何も起こらないのではとも後ろ向きな事を思っていたが、今朝ジルベルトが語った言葉が頭の中を過る。
『あの書物に振り回されないで……
レティも怯えないで、今をしっかりと見つめて前を向いて進んで欲しいんだ』と……
(前を向いて……
こんな風に逃げてばかりじゃ、何かが起こらなくともジルに呆れられてしまうわね……
ジルは、書物のような振る舞いを私に対してすることもなく、こんな私の事を昔と同じように、いつも気に掛けてくれている
わざわざ迎えに来てくれてまで、私にその言葉を伝えてくれたジルの言葉に答えたい
現実は書物とは違うのだから、気持ちを強く持たなきゃ……)
レティシアが強く気持ちを持つと、なかなか言葉を発しないエリカへ、レティシアは笑みを向けた。
「私で出来る事であれば、何でも仰有ってくださいね、エリカ様」
「あ、あのですね……
昨日、レティシア様も同じ場所にいたから知っていると思いますが、王太子殿下に廊下でぶつかってしまったのにも関わらず、殿下は優しく私の事を助けてくれたんです
それで、殿下にお礼をしたいと思ったのですけど、学年も違うから接点もなくて
レティシア様は、殿下と交流があると聞いたので、それでお願いしたかったんです」
エリカはレティシアの目の前に、可愛いくラッピングされた包みを差し出す。
「これは……?」
「今朝、我が家の料理長と一緒に、私が作ったクッキーなんです
私、お菓子を作る事が好きで、よく作っているんですよ
私からのお礼として、レティシア様から殿下へ渡してくれませんか?」
「え……」
レティシアの頭の中に浮かんだ事は、基本的に王族は厳しい管理の上で扱われたものしか、口に出来ない事であった。
その為、王族への飲食物の提供や贈り物は、慎重を重ねなければならなく、素人の手作りのものを王族へ贈るなど、通常であればあり得ない事であった。
その事をエリカへ伝えようとするが、その次に頭に過ったのは書物に書かれた一場面。
偶然二人が学園の庭園で出会い、そこで渡す事の出来なかったこのお礼のクッキーを、主人公のエリカが相手のジルベルトへ差し出し、それを彼が口にする場面であった。
(どうしよう……、私はどうするべきなの……?
本来なら、王族へ飲食物の贈り物は控えるべきだと、伝えなければいけないと思う……
けれど……、ここで断ってしまったら、ジルとエリカ様の仲を近付けてしまう事になってしまうの?
だけど……渡す事を引き受けるのだって……)
「やっぱり駄目ですか?」
「あの───」
◇*◇*◇
レティシアはエリカと話した後、生徒会室の前に居た。
レティシアを朝送ってくれたジルベルトが、講義が始まるまでの間、生徒会室で少し仕事をすると話していたからだ。
先程エリカから渡された品物を胸の前で抱えながら、複雑な心境にかられていた。
扉前にいた護衛が、中に居るジルベルトへレティシアの来訪を知らせると、中に入る許可はすぐに出て扉が開かる。
中にはジルベルトの他に、兄のアランとアルフレッドもいた。
「レティ、どうかしたのかい?」
「あ、あの、少しジルに用があったのだけれど……
忙しいなら、違う時間に……」
「大丈夫だよ
今、昨日のルドガー王子とレティの一件を、アルから聞いていただけだからね」
「あ……、そうだったのね
アル、おはよう
昨日は迷惑をかけてしまって、ごめんなさい」
レティシアの謝罪に、アルフレッドは笑みを浮かべて返す。
「レティおはよう
俺は迷惑だなんて思っていないから、気にしなくていいよ
それに、ルドガー王子からはあれからも特に何もなかったから、心配もしなくていい」
「うん……」
そんな、二人のやりとりを黙って見ていたジルベルトは、自分へ彼女の意識を戻すように声をかける。
「それで?
レティの私への用とはなんだい?」
「あ……」
レティシアは、あの時エリカから頼み込まれてクッキーを受け取ってしまった。
未だにモヤモヤする胸中ではあったが、ラッピングされたクッキーをジルベルトへ差し出す。
「これを……、ジルへ渡して欲しいと頼まれて、預かったの……」
「これ?
これはなんだい? それに誰から?」
「……エリカ·シュタイン様からよ
昨日、ジルに助けられた事へのお礼をしたいと考えたようで、お家でクッキーを作ったそうなの
だけど、ジルとの接点がないから、ジルと親しいと思った私から渡して欲しいって仰有られて……」
レティシアの言葉に、アランは怪訝な表情で口を開いた。
「レティ、王族への飲食物の贈呈物の決まりを、お前は知らない訳ではないだろう?」
「それは知っています
だけど……」
レティシアが言葉に詰まらせていると、前に居たジルベルトがいつもとは違う厳しい表情で、レティシアへ目を向ける。
「レティ、どうして断らなかったんだい?」
「ジル……?」
普段、自分へ見せてくれるにこやかな表情ではないジルベルトの厳しい表情に、レティシアは身体を強張らせた。
「レティを、咎めたい訳ではないけれど
アランも言ったように、私達王族への贈呈物の中でも飲食物には色々な決まりがある
その一番の理由は、王族の暗殺のような謀反を防ぐ為である事は、レティも知っているよね?」
「ええ……」
「まぁ、万が一に供えて、王族である者は毒物や薬の耐性は付けてきているし、ある程度の知識もある
匂いや口に含んだ時の違和感で大抵は気が付き、身体に取り込む前に自ら防ぐ事は出来るよう学んではきているから、周りからは色々言われるが、私は個人からのこうした贈り物に対しては、あまり問題視をしていない
しかしね、これを君が受け取って、私に渡したという事が問題なんだ」
「私……?」
「私達の婚約確定の正式な周知はまだだとしても、内定している事を知っている者は知っているし、何より君は私の婚約者候補の筆頭だ
未来の国母という、そんな君の立場を奪いとってその立場に立ちたいと願う者や、娘をその立場へ立たせたいと考える野心にまみれた強欲な者は多くいる
受け取ったこの物が、そんな者達の罠であったとしたら、どうなると思う?」
「え……」
「シュタイン家は、今の所、王政と対立している貴族派ではなく中立の立場だとは聞いているが、裏ではどう動いているのかは掴めてはいない
レティは、君の優しさでシュタイン嬢からこれを預かって、私に渡しに来たのだろうが、相手の思惑を鵜呑みにしてはいけない
本当の感謝からなのかは、本人にしかわからないのだからね
これに毒物が万が一含まれていた時に、彼女が君へこれを渡したという証言をする者がもし現れなかったら……
君は王太子である私へ、毒を盛った反逆者とされる
そして、君の父上である宰相が指示したのかもしれないと謀反を疑われ、最悪お家取り潰しの上、王族殺害未遂で少なくとも宰相と君は極刑だ」
「………っ…………」
レティシアの手は小さく震え始める。
「たかが、一人の令嬢の手作りクッキーで、と思うかもしれないが
そんな醜い思惑がいつも狙うような立場に、レティは立っているのだよ
こんな風に、毎回人を疑うような生活は、優しい君にとって苦痛なのかもしれない……
私はね、君の優しさを利用して、君が陥れられるような姿は見たくはないから、厳しい声に聞こえたと思うけれど、この事を君へ伝えたかったんだ」
「私……」
厳しい表情をジルベルトは緩めると、言葉を続けた。
「レティはそんな事を考えずに、シュタイン嬢に頼み込まれて、断れずに受け取ってしまったのだと思う
レティは、困っている相手を放っておく事が出来ない、優しい人間だからね
これは、受け取れない事を私から彼女へ伝えるから、心配しなくていいよ」
そんなジルベルトの言葉に、ズキンとレティシアの胸が痛んだ。
(優しさなんかじゃない……
ただ万が一、書物のようになったら嫌だと思ったから……
ジルとエリカ様を二人きりで会わせたくないっていう、自分勝手で狡い考えがどうしても消えなくて、受け取ってしまったのだもの……
それなのに、ジルが直接エリカ様へ伝えるという事は、結局二人を合わせる事になってしまうなんて……
やっぱり運命には抗えないという事なのね……)
ここまで読んで頂きありがとうございます!
ブックマーク、評価ポイントをありがとうございます!