*****8 双方の白い獣
一樹の目の前を小さな白い狐が2匹歩いている。
淡い光を纏っているその姿は幻想的で、現実味がない。
影もなく、あらゆるものを通り抜け歩くその様から、2匹が霊体だと判る。
周囲の人々にその姿は見えていないのだ。
普段からそれらの怪異を見知っている一樹にとって、けして珍しいものではなかった。
しかし眷属として狐、しかも白狐を複数従えている者を見るのは初めてだった。それほどまでに神崎は力を持っているというのだろうか。
白狐は踏切付近を行ったり来たりした後に、一点に留まった。
「……?」
どうしたというのだろうか。神崎が足を留めた場所を注視したが、時に変わった様子はない。だけれどそこに口を挟める程の間はなく、次の瞬間、白狐が空に向かって嘶いた。
何か記号の様な複雑な模様の円陣がその足元に眩く出現する。
まるでそれは映写機で映し出された画を見ているような、白と、黒の断続的なものだった。
映し出された、あの姿は……。
「あれは、杉本さん……?」
浮かび上がる影には確かに見覚えがあったのだ。
『オソロシイ』
彼女なのか? いや、違うのか?
『コワイ』
『イタイイタイヨ』
『イヤダ』
『イカナイデ』
『モドシテハヤク』
『マタダメナ、ノ』
脳に直接響く声だった。重苦しい気配と生臭いにおいが鼻を掠める。
何もない筈の肩に、何かがずしりと圧し掛かってくる感覚。逃げ場がない、そう自覚すると余計に気分が悪くなってくる。
「大丈夫?」
神崎が肩を支えてくれなければその場に膝をついていたに違いない。
ムワッとした湿気が全身にまとわりつくような、そんな不快感だった。先程まで白狐の神秘さにふわふわと見惚れていた筈なのに、それが一瞬で消し飛んだ。
そしてその情景を見せているのが他でもない白狐だなんて。
「この地に強く残る意識を掬い取っているんだよ。確かにここに、彼女は居た。数多の念よりも勝るなんてね。彼女はまだ生きているというのに、これは中々興味深い」
神崎は片腕で一樹を支えつつも、その瞳は目の前の光景を冷ややかに見下ろしている。一樹とは対照的な強い眼差しに宿る光は先ほどまでとはまるで別人の様だ。
「聞こえるかい? この声」
―― ……め かごめ ごの中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀がー…
聞こえる。複数の子供達の声がする。いつの間にか白狐の周囲を子供達が廻っている。
ふわりと、出ては消え、跳ねる。
半透明の子供達の顔は、やはり白く、その全身に造形は無かった。
その内の一人が一樹の方を振り返る。
「かごめ、歌?」
一樹の背筋にヒヤリと冷たいモノが伝った。
「っ」
まるでそのつぶやきが合図の様に。
今まで耳元で幾重にも重なって聞こえていた幼声がすべて消え去り、一切の無音が一樹を襲った。
ゾワッと全身が泡立つ。
あれほど寿一に釘を刺されていたというのに……。この時の失態を、恐らく今後一樹が忘れることはないだろう。
いついかなる時も隙を見せるなというその教えを。
『だぁれ?』
耳元で聞こえたその声は、もう子供のソレではなかった。
(取り込まれる)
背後にある気配。かかる冷たい吐息。
足元はコンクリートの路面であるというのに、草を分ける様な足音がする。
ソレは明確な意思をもって一樹の足元から這い上がってきた。
(止められない!)
今すぐソレを振り払いたい。いつものように飛び退けばいいのに、地面に縫い留められてしまった両足は思う様に動かない。
「この子は駄目だよ?」
(神崎?!)
パキンッ!
金属音に似た甲高い音を立てて拘束が解かれる。
乾いた音と共に一樹はその場に両膝をついた。崩れ落ちるとはまさにこのことなのだろう。
これではあの夜の、一樹自身が祓った杉本の姿、そのものではないか。
「げほっ」
一樹は身体を折り曲げ激しく咳き込む。
胃が絞られるような感覚にギリッと唇を噛んでやり過ごそうとするが徐々に冷や汗が出てき始めていた。
(吐く……)
こんな所でみっともない姿を晒すというのだろうか。
今までにも瘴気に中った事はあるが、これほど急速に影響されたことはなかった。一樹は一般の人間とは違い、妖異に対する耐性もある。そうであるのに、この有様なのだ。
知られたら油断にも程があると、また咎められるに違いない。
「深呼吸」
隣に立っていた神崎が一樹の傍らに膝をついた。
浅く呼吸を繰り返していた一樹の肩に触れる。
じわりとそれは光と共に一樹を包み込んでいった。次第に一樹の身体から不快感が取り除かれていく。
「……」
(これは、白狐の光?)
いつの間にか両肩に乗っていた白狐が一樹を見て笑うように一つ跳ねた。
「そろそろお行儀よくしないとね。お兄さん怒っちゃうよ?」
神崎ののんびりした口調といつもの声。「よっ」と立ち上がった神崎は口元こそ笑んでいたが、わずかに構えたその身に隙は感じられない。
「カノ」
神崎の一声で一樹の肩に乗っていた白狐がその身をしならせた。
白狐の咆哮と共に黒い影を取り囲むように出現した光の玉を支点に線と線が結ばれる。
「光の、玉?」
黒い影は消え去り、代わりに神崎の掌に収まった光玉は真白と灰色の対流を繰り返している様に見えた。
「そう。やっと捕まえた。奴が一樹君に気を取られていて助かったよ」
神崎はそう言って、一樹の黒髪を軽く撫でた。
「それって、どういう……」
まだ気分は優れなかったが、何とか一樹は立ち上がる。もはや撫でられる事を気にしていられる状況ではない。
言われた意味を問う前に、神崎は続けた。
「この封印術はカノがいても結構時間がかかるんだよねえ。とりあえずはこれで一段落」
神崎の言葉に一樹の肩に乗っていた2匹の白狐がコクコクと頷いている。
囮かよ、と一瞬神崎を渋く睨むも、それよりも気になることが一樹にはあった。
「カノって、白狐の名前?」
肩に乗っている白狐にそっと触れる。
神崎の眷属。フクと同じ霊体ではあるが、指先に伝わる熱は確かに暖かく、柔らかい。
「驚いたな」
神崎の目が見開かれる。
「カノはよほど一樹君のことが気に入ったかな」
「触っちゃまずかった?」
「いや、喜んでる」
神崎が若干面白くなさそうな顔を見せた。
いつの間にか左肩にいた白狐までも一樹の右肩に移動しており、せがむ様にその頭を一樹の手に擦り寄せていた。
当の一樹は気にしている風は無く、2匹に微笑んでいる。
「どっちがカノ?」
「どっちも」
「えっ?」
神崎が来い、と言わんばかりに顎を僅かに動かすと、白狐は動きを止め神崎の側へと降り立った。
「2匹いるのに名前が1つ」
不思議だった。
この世界において名とは、重要なものではなかったか。
それは一樹達が属する社会の中でもそうであった筈なのだ。