*****16 在りし日の言霊
「……樹くんっ…… 一樹、一樹!!」
自分を呼ぶ声がする。
ふわふわとした意識の中、未だ一樹は微睡んでいた。
そういえば、何があったのだったか。
揺れ動く身体と、繰り返す声には覚えがあるような気もする。
「一樹!」
そうだ。闇に飲み込まれ、異形の意識に触れたのだ。
その中で見たのは、己の闇だった。ずっと深くは探らないできた、過去の苦い出来事。
助けられなかったと思っていた少年、あれは確かに『彼』だった。
そうして睫毛が弾いた温かいモノに呼び起こされるように、一樹はようやく瞼を開くことが出来た。
「かん、ざき?」
目の前に現れた顔に、あの空間から脱したことを悟る。
重なった面影に、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
(ああ、そうか)
神崎の腕の中で、不意に一樹は笑った。
恐らく神崎も闇の中にいたのだ、きっと。妙に疲弊した表情と涙の跡の残る頬がその事を一樹に想像させる。
あの闇も、見えた少年も異形が見せた幻影。己の中の弱さにつけこむ、何らかの術だったのかもしれない。
ただ1人で異空間に入り込んだわけではなかった。
側には神崎がいたままで、2人違うモノを見せられていたのだ、きっと。
そうして気付いたのだ、神崎も。
最後に、この腕に抱いた身体はあの日と同じ、もしかしたら互いだったのかもしれないのだと。
(せっかく俺よりでっかくなったのに、かたなしじゃんか)
「まだ泣き虫直ってねえの?」
「あのっ、あのね……俺、あんたに言いたいことがあるんだっ」
一樹の胸に、温かい感情が込み上げてくる。
(なんだろう、こんなにも急に何もかもすっ飛ばして……いきなり全部が届くことなんてあるんだ)
神崎は最初こそ心配そうに眉を寄せていたものの、そんな様子の一樹を見て次第にバツの悪そうな、困ったような瞳をして。最後には同じように笑った。
見ると仰向けの一樹の肩口には賈氏と紫乃がおり、じっとそんな2人を見つめていた。
すーっと細められた双方の赤い瞳に一樹も、そう返す。何もかもを知っていたのかな、お前達は。
そして、あのバカ親父も。
考えを巡らせるとふつふつと腹の底からわき上がってきた。怒りに一樹の唇がぷるぷると震えてくる。
「大丈夫? 今、治療してるからっ」
「知ってる。てか、これってまさか」
「ごめんっ、ごめんなさいっ! 俺がやりました……だって敵だと思ったんだもん」
肩の傷は、賈氏達の助力もあってか徐々に治まってきているものの、ズクズクと痛む。
幻を見せられていた、それはやはり神崎もだったのだ。しかし容赦のない攻撃だった。
仰ぎ見た神崎はあたふたと、見たことのない表情をしている。どうやら神崎自身、理解した今の状況に追いつくのがやっとなのかもしれない。
『ありがとう』
一樹が目を軽く見開く。
声が、聞えたような気がしたのだ。
「これは……あ」
その事で初めて気づいた。いつの間にか右手に握り締めていた小さな札の様なものがぽろぽろと灰となって崩れ落ちてゆく。
(今のは一体)
「どうかした?」
神崎が心配そうに覗き込んでくる。
「いや、今何かー……って、近!」
思わず勢いよく飛び起きる。
神崎は咳ばらいを1つ。
「狭間から出てきて、一樹君気を失っちゃったからね。現場からは少し離れた方がいいと思って。近くに倒れていた杉本さんも無事だったよ。さっき医者に引き渡したから、大丈夫だと思う」
「良かった」
そこでようやく一樹は周囲が騒がしいことに気付いた。もと居た場所、すなわちHCU付近はそれなりの騒ぎとなってしまっていたのだ。それは脇の通路で一樹が気を失っていても目立たない程に。
神崎は通路の椅子の影に隠す様に、一樹を壁にもたれ掛けさせていたようだ。混乱に紛れていたようで、一樹はほっと胸を撫で下ろす。
(でも、そっか)
改めて反芻する事実に、先程までの怒りはどこへやら。みるみる一樹のテンションが落ち込んでゆく。身体がひどくだるいのもあって、そのまま床にへたり込んでしまった。
「生身の杉本さん見失ったり、俺だけ気を失ったりとか、かっこわりぃ」
「そんなことないよ!」
反して元気よく立ち上がった神崎の顔は真剣そのものだ。
「一樹君は、俺のヒーローだから」
「ナニソレ全然説得力無いんですけど」
ジト目の一樹。
薄く微笑んだ神崎は、座り込む一樹にそっと手を差し出した。
「ほんとだよ」
「ちょっ!」
そのまま手を引っ張られ、まだ残る痛みに抗議の声を上げるも直後すっぽりとその腕に収まってしまう。
すぐに振り解こうとしなかったのは、何となく、また神崎が泣いているのではないかと思ったからだ。
「昔も、今もね」
「?」
「守ろうとしてくれてありがとう。ずっと、言いたかった」
流れてくる、感情が。
互いの肩口しか見えないのに、でもそれは包み込むようにそっと、一樹の中へと流れ込んでくる。
今、神崎がどんな顔をして、何を想い、感じているのか。
それは同じ時を過ごしたからこその、回顧であり、これは必要な、かえようの無い時間なのだ。
幼き日に経験した咎。8年もの間、その鎖に縛り続けられ、留まっていた心が動き出した瞬間だったのかもしれない。
『かーずきぃ』
見ると、廊下の向こうからフクが飛んできているところだった。
いつものように一樹の肩に止まった姿は少々毛が乱れている気がしないでもない。
『だいじょぶか~ってか、わしおったの忘れとらへん?』
「居たのお前」
『ひどっ! わしずっと術の行使続けとったんよ? 知ってる?』
「あー、はいはい」
「君らほんと仲良いね」
そのことでこれからがどうなるのかは、まだ判らない。決められない。
変われるだろうか。いや、変わりたいのだ、きっと。
灰となって消え去った声も、今目の前にいる記憶の中の人も「ありがとう」と言ってくれたから。
手の届く距離にいる『人達』にだけでも何か出来るのではないかと、そう思ってしまうんだよ。




