*****10 置き去りの邂逅
一樹が初めて育成地に連れていかれたのは8歳の事であった。
本来であれば退魔師としての素養を最低限満たしている年、ということなのだろう。
当時を思い出しても、その地にいたのは同じ年の子らばかりだったと記憶している。
寝食を共にし、学んでいた。
最初は恐らく何も思わず、大人に言われるがままだった。
学校の長期休み中に、広い山の中の大きな建物に同じ年頃の子達と寝泊まりをする。
見知った親族や引率者もいることで、習い事の延長か林間学校か、なんていう意識しか一樹にはなかったのかもしれない。教授される内容も家にいる時とさほど変わりなく、一樹にとってそれは楽しくさえもあったのだ。
しかし、それは起こる。
育成地での訓練をあらかた終え、親元に戻る日が近づいていた頃だった。
徐々に訓練生が姿を消し始めたのだ。
体調不良か、家族に何かあって家に帰されたのか?今なら何かしら疑問にも思うだろう。
しかし当時は8歳の子供の考えであったし、詳しく素性を知らない子供相手の事だ。何より自分達を保護している大人達が何も言わない為、一樹も深くは気に留めていなかったのかもしれない。
自らの番が来るまでは。
『この石を持って霊獣の樹のところまで行って、宿舎まで戻ってくるだけでいい』
大人達は言う。
『これは訓練の1つだ』
決まり文句かの様に繰り返す。
頭上から降ってくる言霊。その時の大人達の顔は何1つ覚えていないのに、声だけは覚えている不思議。目を閉じても声は追ってくる。
(気持ち悪い)
『夜の訓練は初めてだけど、2人なら怖くないだろう?』
2人で班を組んだ子と顔を見合わせ笑った事を覚えている。何の疑いも、恐れも抱いていなかった、あの頃。
今となっては聞かされている。あの訓練はその個体の適正を見極めるものであり、次のステージに進める能力の持ち主かを選定するものであったこと。
いなくなった子供達は帰されたのではなく、帰ることを余儀なくされたことを。
「痛ぃ」
今もその痕は残る。自らの身体に、心に。
夢に見る。ずっと何かがそこにいる気がして傷口を掻きむしる。
もう血は流れていないのに、そこを抑える様に触れるのがいつの間にか癖になってしまっていた。
最後に覚えているのは少年の泣き顔だった。
共に死生の間をさまよった少年は、その時に死んだと聞いた。
「一樹君?」
「なんでもない」
不安がそうさせるのだろうか。首筋の傷口が痛む。
空を覆い出した黒い雲からは今にも雨が降り出しそうだ。
◯病院、午後5時43分。
恐らく中規模の総合病院だろう。隣街に程近い位置にそれは佇んでいた。
建物もそう古くない。だけれど、どうだろう。
建物に一歩踏み込んだ際に感じたひんやりとした空気。窓からの光りが射し込む廊下も、何故か暗く感じられるのだった。
しかしそれは一樹が感じていただけに過ぎないのかもしれない。たまにすれ違う人々はなに食わぬ顔をして、恐らくいつも通りにこの場に存在している。
それが妙に気持ち悪く感じて、思わず一樹は立ち止まってしまった。
先程の瘴気にあてられてしまったのだろうか。
いや、違う。
「クソ親父」
それは病院への道中に聞かされた、事の顛末のせいだ。
神崎が何故それを一樹に話したのか、その真意は判らない。だが、怒りを向けることも、それ以上追及することもしなかったのは、『ごめん』と謝罪した神崎の顔が想像以上に酷いものだったからかもしれなかった。
あの夜の杉本と神崎との出会いも偶然ではなかった。
一樹が障りを払うよう仕向けたのも、神崎がバディに一樹を指名したのもすべて寿一が指示したこと。
すべては一樹の能力を測る為だった。その事実を。
試されている。ずっと、ずっと……。
「後のことは、見れば判るから」
そう神崎は言ったが、この先に何かあるとでもいうのだろうか。
ここに来たということは、恐らく光玉に封印した妖異と関係している。
確かに病院内は瘴気が濃く澱んで見えるが、その因果関係は一樹に判るはずもない。
神崎に促されるまま、院内の奥へと足を進める。ちらほらと見えた来院患者も次第に減り、通路を曲がった所で視界が開けた。
右手にはガラスの貼られたナースステーションがあり、数人の看護婦の姿が見える。
「HCU?」
受付には2人の青年が佇んでおり、看護婦から手渡された紙をパラパラと捲っている最中だった。
「そう。一般病棟だと治療が難しいらしくてね。数日前からこちらに移ってるんだよ」
「誰が?」
「杉本さん」
「えっ」
思いの他大きな声だったようで、一樹はこの空間にいる人々の一切の視線を集めてしまったようだった。
受付にいた青年の1人と目が合う。
黒のレザージャケットがすらりとした長身を引き立たせる。間近で見下ろされたことで、普段から身長にコンプレックスを抱えている一樹は思わず身構える姿勢をとってしまった。
赤茶の髪がかかる切れ長の鋭い眼差しは野生の獣を彷彿とさせる様だ。一瞬一樹を捉える瞳が細められた気がしたが、すぐその視線は外されてしまう。
もう1人の青年が「櫂さん」と、その男の肩を叩いたからだ。
「すみません」
我に返った一樹が条件反射の様に謝罪する。
「いえ、大丈夫ですよ」
赤毛の男の代わりに一樹へと向けられた瞳が柔らかく細められる。赤毛の男と背丈はそう変わらないものの、持っている雰囲気が全く異なる。それは言うならば動と静だ。一見して上質と判るコートは濃紺。そっと眼鏡を直すその所作はいっそ美しくもあった。それは微笑まれた一樹が思わず飲まれてしまった程に。
全体的に色素が薄く感じられる、それが彼をこんなにも儚げに見せているのかもしれない。
だが、それも一瞬の事だった。
「行くぞ、音彦」
「では、僕達はこれで」
櫂の促しに、音彦が一樹達に一礼する。
「他に術者が来るなんて聞いてないぞ、俺は」
その場を後にしながら、櫂は誰にともなく呟いた。
すれ違いざまに見た黒髪の少年の瞳が、未だ自身の背中に注がれていることを感じながら。




