*****1 スズメの聲(コエ)
屋台船の中は熱気に満ちている。
どこからともなく漂ってくる酒の匂いは一樹の顔を歪めるには十分なほどだった。
響き渡る笑い声。時折目の端を掠めていくのはその他諸々の有象無象の影だ。
「……早く帰りたい」
料理が置かれた机に一樹は項垂れる。
朝も早くから父・寿一に叩き起こされ、半ば強制的に連れて来られた先は毎年行事ごとに使われる屋台船だった。
親戚が一堂に会する数少ない行事の為、毎年否応なしなのだが、一樹としてはそろそろ仮病、もとい欠席したい。しかしその願いは叶えられることもなく今に至っている。
「相変わらずだの。いつまでそんな顔をしておるのだ一樹」
その時だ。一樹の頭上から可愛らしい声が降ってきた。
目に飛び込んできたのは色鮮やかな四つ身裁ちの着物。七五三の女児が紛れ込んだのかと見紛う姿だ。
「だってさー」
「だってもなにもあるものか」
まこい鈴女。一樹の家である橘家の経営する『歩廊座雑貨店』を切り盛りする少女である。
一樹が幼い頃から側におり、橘家の者には馴染みが深い。平たく言えば居候なのだが、一見して可愛らしい少女の姿をしている為、一樹の妹に見間違われる事もしばしば。
だがそれは仮の姿であり、本来はその名の通り小鳥なのであった。
寿一がある任務の際に連れ帰った雀が妖化したのだという。その場で寿一は洗礼を施し、それ以来橘家の物の怪として一樹らと生活を共にしている。
人型、半妖、雀の姿を自由自在に操れるれっきとした物の怪なのだが、当の本人はそれをすっかり忘れてしまっているかの様な振る舞いをしており、最近では周囲を少々騒がせているのも事実だった。
鈴女は5歳児の身なりと人懐っこい顔で『歩廊座雑貨店』がある界隈では一際目を引く存在となっていた。関係者のみならず一般人も利用する店なのだから当たり前なのだが、鈴女自体に自覚がなさすぎるのだ。先日は店番をする机でハムスターと戯れてしまい、流石に寿一に咎められていたがあれはどうなったのか。
今もそのハムスターの一片が見えている気がするのは一樹の気のせいではないだろう。四つ身裁ちの着物姿に動物の耳がついたカチューシャは正月だからアリなのか無しなのか、
もはや只でさえ気疲れしている一樹の目には問題児にしか映らない。
今もカチューシャを気にしてか、先程の一樹の一言に不満そうにしながらも、ちょいちょいとその耳を摘まむ様は、おしゃれに目覚めたお年頃のそれだ。
「とにかく! 俺はここに来たくないんだ。毎年毎年正月に集まって宴会とか今時古いんだよ」
「うつけ。年に一度の集まり位楽しく過ごせんのか。顔見せの意味もある、それにだな」
「鈴女にはわかんないよ」
机の上に置かれていた湯呑を一樹はあおった。鈴女の説教は長い。だがそのくだりよりも先に感じた熱さに一気にそれを吐き出してしまっていた。
「あっつ!」
ひらりと交わした鈴女は涼しい顔だ。条件反射的に吐き出したものの、恐ろしく熱いお茶でだらだらに濡れた口元はぴりっと痛みを感じ始めていた。
「まったく、はよう顔を出せ」
「えっ」
一樹に緊張が走る。
最初に感じたのは顔を包まれる様な熱気だった。だが、次の瞬間にはヒヤッとした冷気が鼻先を掠めているかのような不思議な感覚が、一樹を包み込んでいたのだ。
いつの間にか紅く瞬いていた鈴女の瞳はこの世の者成らざる者の証なのかもしれない。
「まだまだわっぱだの」
呆けている一樹を見やり、鈴女は溜息をついた。
「もう治ったのか」
見ると濡れていた膝も乾いている。鈴女は空いた湯呑を手に立ち上がった。
「一樹も風の力を持つ身、このくらいのことは出来るのじゃぞ」
「……」
鈴女のくりくりっとしたどんぐり目が訝気に細められる。
「そういえば鈴女、その頭に付けてるの」
「ほぉ!」
やっと気づいたかと言う風に鈴女の大きな目が一際輝いた。
「これはの、先日寿一殿に連れられて入った店で見つけたのじゃ~。『ハムまる』っぽいじゃろ! 今日は連れて来れんで残念じゃったからこれを付けておるのだ!」
「あぁ、あいつね……」
一樹が嫌そうな顔で呟いた。それは今現在『歩廊座雑貨店』で鈴女と共に店番を担っているハムスターの名前だ。家業でペットショップを訪れた際にゲージからいつの間にか脱走していたハムスターで、やる気なく店内に突っ立っていた一樹の指を噛んで一悶着あっただけに、一樹としてはしかめっ面になるのも仕方ない。
まさかそれを鈴女が飼うことになろうとは思いも寄らず、最近では『歩廊座雑貨店』に、より足が向かなくなった一樹なのであった。
「わしが寿一殿と出掛けるのは一樹。お主が『仕事』を放って遊び呆けておるからなのだぞ?」
『仕事』。それは歩廊座以外の橘家の家業のことだ。
鈴女の言葉にぐっと言葉に詰まる。
「別に遊んでるわけじゃ」
だが、一樹の次の言葉はなかなか出てこない。判っているのだ、それは。
厳密に言えば遊び呆けているだけでもないのだが、そんな風に鈴女が言ったのは、今この場にいる親族の目があるからだろうことも。
「一樹も、もう16であろう? 」
「帰る」
「待たんか、一樹!!」
もう外は夕闇。
逃げるように急いた街中の道は案の定たくさんの人でごった返していた。
何が正月だ。一樹はムッとした表情のまま人の間をぬっていく。
世の中は温かなお祝いムードで、街中に入ればわいわいがやがやの人込みだらけ。
人を避けるように、灯りを避けるように、知らずソコへ入り込んでいたことをまだ一樹は気づいてはいなかった。