魔女の秘密
いつも持ち歩く魔力が込められた地図上で、自分が手紙に施した光が予想と違う道を辿るさまを見て驚愕し、そして悲鳴をあげそうになった。
ここへ来るまでに残して来た道しるべの通りに、手紙の中の印は指し示す。
あの子は地図を読むことは出来るけれど、新しい場所の土地勘には疎かった。
だから、示す印以外の道を、手紙を持っているはずの彼が使うとは思えない。
いるの? ここに?
一体どこに?
探したくても、ここにいるという事実から目を背けたい自分がいる。
それに騎士団長や、彼より一つ階級が下の騎士達が四六時中あたしを監視しているため、安易に抜け出すこともできない。
この監視部屋から出られるとしたら、あたしが戦場へ出るその日だけなのだ。
ーーーー数日前に発覚した事柄に動揺したものの、このまま気を散らしていては自分どころか他の人間まで死なせてしまう。
この戦場のどこかにいるであろう、あの子のことまで。
自陣に近付く敵襲を躍起になって散らしつつ、美しい青年の姿を探した。
輝く金髪に青々とした湖面のような瞳。その姿を失うことだけは、耐えられないと思った。
「おい、敵が横から傾れてきているぞ。戦況を見て攻撃しているのか?」
「……あたしは戦事に明るくない。出来れば、知恵を貸してもらえると助かるのだけれど」
魔女の中には進んで争いの渦中にいる者もいたが、あたしは自分がどういう状態かを良く知っているため、守り切れる自信がなく森の奥に籠もっていた。
過信は悪とし、新しい物事に取り組む時でも魔力が尽きぬよう使用制限を設けている。
他の魔法師と違って、あたしは魔力を外から取り入れることができない。
生まれた時にそう告げられた両親は、あたしが無闇に魔力を使うことのないよう自給自足で生きる知識と術を与えると、最小限の魔法しか教えてはくれなかった。
もちろん知識欲が滾る年齢になってくると、自分で勝手に学んではいたけれどーーーー。
術の習得を目指すには、実行が必ず必要になってくる。そのことを常に念頭に置き、新しい術の練習をする度に死の覚悟を決めて取り組んでいた。
今のところ、一度使っただけで死んでしまうような、膨大な魔力を消耗する術には出会っていないけれど、これも慢心はできない。
いつ尽きるかも量ることができない魔力を、今は出し尽くす勢いで放出しているのだからお笑いぐさだ。
あの子には、自分の体のことは話していない。
だから何も知らない。それでいい。
無知は罪だと説いた人がいた。
しかし反対に、無知は救いだと説く人もいる。
知らないままでいることは、きっと彼にとって救いになる。
そう信じて、遙か前方にいるだろう愛しい青年を想った。
「魔女、お前も下の戦場へ来い。その忌まわしい力、人間のために役立ててみせろ」
あたしは騎士に連れられて、争いの渦中に自ら進んだ。
戦況は五分五分といったところだと、周囲の騎士が頭上で会話している。
頭にはまる鉄の装甲の隙間から覗く馬の目が、血気盛んに勇ましく光った。
遠くに、灰色の雨雲が流れている。
風向きからして、直に戦場を荒らしにくるだろう。
雨天は恵みの水を招く。が、暗雲を見せる天候は強風を起こして地を崩す。大きく黒い雨雲が、あたしの不安を煽りにきた。
「魔女、おまえはあっちだ。前方と左からくる敵軍を蹴散らせ。必要なら自軍を巻き込んでも構わない」
指示を出すと、その人の子は自分の騎馬隊を連れて右へ逸れていった。
歩兵の足並みから外れ、一人まったりと歩くあたしの視界に自軍の返り血が撒き散る。
ああ……きっと知らない方が良かったのだ。
争い事なんて、あの子は知らない方が良かった。
出会って最初に見た姿は痛ましかったけれど、それでも彼の傷を見るに、嫌悪を向けてきた相手は最低一人から三人ってところだろう。
こんな、数えるのも面倒なほど大勢で纏まった憎悪や嫌悪の混じる敵意と戦意を、彼は知らないでいて欲しかった。
魔女裁判の如く、一方的に相手の人格を批難し否定することを許されるのは、闘いに勝ちその他大勢という後ろ盾を得た側。
ただの人の子は、そういう現実を生きるしかない。
仲間の魔女が火あぶりの中で泣き笑う姿に、それまで自分が平和に暮らしていたことを自覚した。
姉妹と慕っていた、魔法を使えないただの人間が無慈悲な裁判にかけられ泣き叫び、その家族が人を殺して抵抗する姿に現実の残酷さを知った。
あたしが生きてきた自然という場所の食物連鎖は、まだ人に優しかったのだと考えを改めた。
彼は、涙を流せているだろうか?
自分の体を無碍に扱われても、大切に育てていた食物や家畜が無残に荒らされても、あの子は眉一つ歪めずに泣きもしなかった。
それでも時々、寂しい顔をした彼と目が合うのだ。
あの時の彼は、何を考えていたのだろうか?
左からくる敵の集団を全て薙ぎ払うと、魔力の限界が近いらしく体の末端の感覚が得られない。
持っていた杖が滑り倒れる寸前、どうにか腕で支え汚れるのを未然に防いだ。
「あの子は、悲しんでいるかしら……」
彼ほど優しい人が、この現状に心を痛めないはずがない。
人を怨むことも出来ず、自然の摂理を曲げることも良しとせず、自分の身が危ぶまれてもその、人の子は、決して周囲を拒絶しようとは思わないのだ。
憎しみや苦しみを引き起こす嫌悪は、簡単に抱きやすく楽に棲まわすことができる、質量の軽い感情というのが魔法師たちの見解だった。
あたしの魔力では、そういった軽量なものしか取り除くことが出来ないのだ。
だから、あたしがあの子から取り除けるものなど、はじめから無かったのだと暫くしてから悟った。
前方で敵味方が入り交じり、足下を濡らす血だまりがどちらに痛手を負わせているのか分からなくさせる。
自分で考えていたよりもずっと、力を使いすぎていたらしい。
さきほどから末端の痺れが取れず、体中の関節が今にも外れんと軋む。
聴覚がぼやけ視界が不明瞭であるにも関わらず、嗅覚と気配だけで、近付く敵を稲妻の魔法で払い除けた。
遠くで雷鳴が轟き、真上では雲間から細い陽光が射す。
暗雲立ちこめる周囲は一度だけ照らされ、優勢に傾くのはどちらだと隙間から太陽が覗き見てくる。
「あの子は、また心を痛めているのかしら……?」
「ーーーーそうでもないよ。恩人に会えたから」
ひどく、懐かしい声が聞こえた。
そうか。彼はやはり居たのだ。
まったく……あたしの言うことなんて、ちっとも聞いてくれないのだから。
育てた親の顔が見てみたいわ、なんて言葉から始まる自問自答をするのは、少し在り来たりが過ぎるかしらね。
「久しぶり。元気にしてた? 魔女さん」
「あなたこそ、こんなところで何をしているの?」
返り血に染まった重厚な鎧を見れば、ここに何の為にいるのかなんて明白だった。
けれど敢えて明言は避け、他愛ない会話の要領で軽快な笑みを向ける。
「あんたこそ、こんなところで何を? というか、お得意の魔法はどうしたの?」
体が不調を来していることに気付いたのか、両眉を八の字にしてこちらに手を伸ばしてくる。
しかしその手を払い除け、あたしは彼に速く持ち場へ戻るよう、問題ないと首を横に振った。
「もっと、おれを頼ってくれよ……」
青年は振り向かず、収拾がつかなくなっている最前線へと駆けていく。
待って――――。
あの青い瞳を引き留めたくなる。眩しいほどに美しい金髪を、一房取って弄びたくなる。
「おい、お前! 何を呆けているんだ! 敵を滅ぼせ!」
背後から怒声を掛けられ、あたしは青年と別の方向へ駆けた。
読了ありがとうございます。
次のお話で最後となります。