魔女の拾いもの
「あなた、ここにひとり?」
眩しいくらいに真っ青な空を眺めていたら、視界の端に影がさした。
「ここが、どういう場所か分かっているの?」
突然話し掛けてきた相手は、怪しく微笑んで覗き込む姿勢をやめた。
「その顔、とても痛いでしょう? ああ、それともこちらの方がつらいかしら?」
黒いローブを纏ったその人は、腫れて顔中がめちゃくちゃになったおれに触れ、その指先が首筋を伝って左胸を捉える。
「痛みはない。つらくもない」
「なら、苦しみは? それか憎しみなんてものを持っていてくれたら、嬉しいのだけれど?」
「どうして?」
「憎しみに繋がる感情なら、取り除いてあげられるからよ」
長くて大きなローブから、夜空に浮かぶ月のように冷たく美しい瞳を覗かせる、黒い髪を持つ美しい人だった。
「あんたは誰?」
「あたしは、そこの森深くに住む魔女」
長い蔦がわんさかと絡む、一見扱いづらそうな杖の先端が右に見える森を指す。
魔法を使えるの、と笑う女性が小さな口をわずかに開くと、獣道にも使えない鬱蒼としていた木々が左右に分かれ、途端人道と化した。
「さあ、童。あたしについてきたいなら、すぐに後を追いなさいね」
言うと、その女性はローブの裾を引き摺って森へ入っていく。
彼女がいなくなると木々が騒ぎ出し、おれの背を追い立てるように強い風が吹いた。
道すがら振り返ると、それまで木の根一つ蔓延っていなかった緑の空洞が閉じていく。
枝一つ顔や体に当たらない正しく人の手が加えられた道が、自然の道理へと還っていく。
「あまり余所見をしていると、背後の森に巻き込まれるわよ」
魔女と名乗った彼女はその時だけ振り向き、それ以降森を出るまで一度もこちらを見なかった。
「あら、本当に付いてこられたのね。あなたには特殊な才があるのかしら?」
木で出来た家屋に着いて早々、相手はローブの頭部を剥いでこちらに視線だけ寄越した。
「魔女は、まだ華の甘美も知らない少女の心臓を食べるんじゃあないのか?」
小さい体とは言え、男の子を女の子に見間違えることはないと考えての問いに、魔女は気分を害したのか鼻をフン、と鳴らし目を眇めた。
「偽善と偏見に満ちた、誤りの知識がその頭には入っているようね。ーーーーまあでも、その詩的な表現は気に入ったわ」
魔女は脱いだローブを椅子の背もたれに掛け、そばの暖炉に杖を立てかけた。
「こうして天気が良いからと外に出てみれば、妙な拾いものをしたわね」
彼女は手をついて暖炉の灰を掻きだし、小さな布に集めたそれを少しずつ外へ運んでいく。
「それ、おれがやる」
「ん? あなた、できるの?」
「前の家では奴隷だった。大抵のことはできる」
「あら、これは良い拾いものをしたわ。なら、暖炉のほうはお願いね」
言うと相手は杖を持ち、調理場横の勝手口から外へ出て行った。
「魔法とやらで簡単にできるだろうに……」
暖炉の煙突内まで綺麗に磨き上げながら呟くと、下から短い笑い声が聞こえた。
「長年使ってないから、あちこち汚れているでしょう? あたしだけなら、魔法で十分なんだけれどねぇ」
人の子が増えたから、と嫌みったらしく笑う声が響くも、「なら拾わなければ良かったじゃあないか」という言葉はグッと飲み込んだ。
「終わったら煤けた服を脱ぎなさいね。着替えを用意してあげるわ」
下りて黒ずんだ体を外へやり、その場で一糸纏わぬ姿になる。
「あら、思ったより良い体をしてるのねぇ。……ふうん。その顔も、殴られる前は整っていたようね」
魔女はおれを頭の天辺から足の爪先まで舐めるように眺め、ふふんと嬉しそうに微笑む。
「あなたには、これからウンと良い男になってもらうわ。そのーーーー華の甘美を知らない少女を誑かして、この家まで連れてきてほしいの」
そして魔女がおれの顔を掴み、その手が炎を纏い、包まれた箇所から徐々に火のミミズが自分の顔面を這う。
熱いッーーーー。
やがて火は顔全体を覆い、熱さからくる痛みを訴えたくても、口を開けた途端に火が侵入する恐怖心がそれを阻む。
次第に熱量が増し、赤に染まった瞼の裏が徐々に青を帯び始めた。
――――っ!
声にならない叫びで体は震え、喉仏を掻き毟ろうと伸ばした両手が魔女の魔法で後ろに回される。
蔦の冷たい感触に藁をも掴む思いで拳を握り、顔を覆う凄まじい熱に耐えた。
「ーーはあ、はあーー、……はあ、はあ……」
「このくらいで息が切れるとは……ーーやはり人の体は脆いのね」
「分かっていて、どうしてーーっ、ゲホッ、ゴホ……ッーーーー」
「文句を垂れる前に、まず深呼吸しなさい。そのままでは窒息するわよ」
魔女が溜め息をついて家に入っていく。荒い呼吸を繰り返しながら、おれはその背中を睨んだ。
しかし相手はすぐ中から出てきて、その手には水の入ったコップを持っている。
「ほら、とりあえず飲みなさい。体内の水分が減少しているでしょうから」
その手から水を受け取るのを渋るおれに、彼女は苦笑する。
「大丈夫。ただのお水よ。ーーーーほら」
顔を抑えていた両手から、魔女はおれの右手を取りしっかりとコップを掴ませる。
表情をつぶさも変えない様子からは、相手が真実を言っているのかすら分からない。
が、こうなったら自棄だとフチを口元へ近付けた。
すると、わずか揺れる水面に、左半分が隠れた自身の顔を見つける。
咄嗟に左手を外すと、そこにあったのは森の妖精たちの王種とも呼ばれる、エルフのような眉目秀麗の顔。
「だれ、だ……?」
「あなたの元の顔は知らないけれど、出来うる限り近付けてはみたの。どうかしら?」
「……これが、おれの顔……?」
「あら、自分の顔も知らなかったのねーー」
小さな水面に映る自分を見て首を傾げるおれに、魔女は漸くその美麗な顔を潜めた。
「それで? あなたの中にある恨み嫉み、憎しみをそのままにしておくの?」
目の前で陽射しを浴びて笑う魔女の言葉に、おれは首を横に振る。
「おれに、そんなものはない」
「ふうん? 珍しい人の子もいたものね。なら、あなたは今どんな感情を大きく抱いているの?」
問われて、はじめて考えるということをした。
自分の中を占める感情に、どんな名が相応しいのか。
「……」
「ふん。そうね……今日はやめておきましょう」
黙り込むおれに、相手は呆れた顔をしただけで赦してくれた。
「どうせ帰る場所もないのでしょう? これからじっくり聞き出すことにするわ」
「一つ……聞いても良いか? どうして、憎しみや苦しみを求めるんだ?」
足首まで覆う衣服の裾をたくし上げ、勝手口の階段を登るうしろ姿に問いかけた。
「あたし、愛の裏返しの感情しか取り除けないのよ」
魔女はそう言って儚げに笑うと、家の中へ消えた。
読了ありがとうございます。
この話はまだまだ続きます。