わたしのまだ見ぬ父親
わたしの母親は大きな瞳をした年齢のわりには若く見られる人だった。白い肌は彼女の表情をよりあどけなく見せていた。だが、その美しく滑らかな肌とは対照的に、胃が悪いのか唇がいつもかさついている記憶がある。
彼女はほとんどメークをしない人で、それは若いうちからそうだった。メイク自体が苦手なのか、若くしてわたしを生んだため、自分にかけられるお金が少なかったは定かではない。
顔立ち自体は綺麗な人だと思う。だが、地味な人でもある。美しい人を花で表現するなら、薔薇と百合で例えられることがあるが、わたしのお母さんは後者だ。
家のドアが開く。同時にどさっという物音が聞こえた。
わたしは体を動かして、台所から玄関を覗き込む。
そこには髪の毛を後方で一つに縛った、トレーナーにジーパンという格好をした細身の女性が座っていた。わたしの母親の平井真知子だ。
「大丈夫?」
「大丈夫。眠れば明日にはまた元通りだから」
彼女は鼻をくんくんとさせ、目を細める。
「夕ご飯を作ってくれたのね。ありがとう」
わたしは彼女の言葉に会釈した。
「日曜日、友達と出かけてきて大丈夫かな?」
わたしは千春に言われたとおり、伯父に会いに行くのは伏せておくことにした。
「いいわよ。お金はいる?」
「大丈夫。そんなにかからないから」
彼女は目を細め、首をかしげる。
「分かったわ。必要だったら気にせず言ってね。楽しんでくるといいわ」
本当は千春の伯父に会うことを話したかった。しかし、千春がああ言うということは本当に合格の確率が低いのだろう。
わたしは母親に似ていると思う。だからこそ、顔立ちが整っていると言われても地味な印象をぬぐえないでいた。
台所まで来た母親が水を飲もうとしたのを制し、わたしが水を汲む。そして、彼女に手渡した。
母親は「ありがとう」というとお水を受け取り、口に含んだ。
「仕事きついの?」
「そんなことないわよ」
彼女は絶対にきついとかしんどいとは言わないのだ。そう弱音を吐くことでわたしに負担をかけさせたくないと分かっているのだろう。わたしがお店を手伝おうとしても、彼女は気にしなくていいといい、一人で切り盛りしているのだ。
わたしには父親はいない。だが、自分を不幸だと思ったこともなかった。
それは母親の存在があまりに大きい。
母親がわたしを身ごもったのは二十一歳のときだ。父親のことは彼女以外誰も知らないのだ。わたしの祖父母にも口を割らなかったらしい。祖父母も母親も生まれたわたしを可愛がってくれた。
だが、大学生だった彼女が妊娠したと分かったとき、それも親が誰だか母親しか分からない子供を身ごもったときはわたしの祖父母は産むのをやめさせようとしたのかもしれない。わたしが祖父母の立場だったら、実際に中絶させるかは分からないけれど、やっぱりそのことが頭を過ぎるに違いないだろう。地元の国立大に進み、人生がこれからというときの妊娠なのだ。
わたしの祖父母はわたしに甘かった。それはその分の負い目があるからからなにかもしれなかったのだ。
もしそうだったとしたら、母親がわたしを全力で守ってくれたのだろう。わたしの母親が彼女でなかったら、わたしはこの世にいなかったのかもしれない。
祖父母は田舎で暮らしている。元々祖母の実家がある地に戻っているのだ。お店を売り、実家に一緒に帰るという選択肢も一時出ていた。そっちで暮らしたほうが生活も楽に決まっている。だが、母親が身を粉にして働いてまでここに留まってくれているのはわたしのためなのかもしれない。
大学は選択肢が多いほうが何かと便利だからだ。
わたしは急須の中のお茶の葉を取替え、湯のみにお茶を注いだ。そして、母親に差し出す。
「ありがとう。忙しいのに悪いわね」
「気にしなくていいよ」
彼女を好きになる人も少なからずいた。その中には幼いわたしに親切にしてくれる人もいた。
それでも彼女は誰とも結婚することはなかった。
わたしが知らないだけで、つきあっていることはあったのかもしれないが、結婚という選択肢を彼女が選ぶことはなかった。
身ごもり、子供を産もうとまでしたわたしの父親を彼女はそこまで思っていたのだろうか。だが、母親はわたしにその話をしてくれたことはなかった。
恋愛面に関しては、彼女が本当な何を考えているのかは分からなかった。
だが、そこまで母親が父親のことを好きなら、母親がそこまで愛した人の姿をわたしは一度見てみたいと思っていた。
それが叶わない夢だと分かっていても。