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さよなら、もう一人のわたし

 それから一年半年が経過し、就職という言葉をちらほらと耳にするようになっていた。千春は大学院への進学を決め、弘は就職活動の準備に取り掛かっていた。


 短かったわたしの髪の毛も随分と長くなっていて昔の長さがに戻りつつあった。

 今日は久しぶりに母親が会いに来る日だった。


 尚志さんは朝からどことなく落ち着かない様子で、部屋の中をうろうろしていたので、彼に出かけようと誘ってみたのだ。

 彼は何かを考えていたようだが、わたしの誘いにあっさりと乗った。


 せっかくの休みなので、買い出し日和とでも考えたのだろうか。

 買い物を終え、家への帰路を急ごうとしたとき、彼は足を止める。


「ちょっと寄るところあるから、どこかで休む?」

「ついていこうか?」

「いいよ。たいした用事でもないし」

「なら、待っているね」


 わたしは近くの喫茶店に入ることにした。

 お母さんのお店も、掃除はしているが相変わらず閉店したままだ。

 お店のことを思い出し、思わず顔をほころばせた。


 こうして普通に生活していても、わたしが杉田さんと同じ映画に出ているなんて誰も気づかない。

 念のため、映画のときと同じ髪型にはしたことはないというのも効果があったのかもしれない。

 わたしは紅茶を注文し、メニューをテーブルの隣にたてかけた。


 杉田さんまで顔が売れると、今のわたしのような行動は絶対にできないだろう。

 彼は相変わらず忙しいようだった。


 杉田さんとは相変わらず電話で話をするだけでほとんど会うことはない。

 だが、そのまま今の仕事を続けるというわけではないようで、大学四年になる彼は今までの仕事の終止符を打ち、新しい道を模索しているとのことだ。

 きっと彼ならどこにいってもうまくやっていけるだろう。


 最初は一人暮らしだったが、今は彼の妹が彼と一緒に住んでいると聞いた。

 彼女はわたしと同じ学年で、顔を合わせたこともある。

 杉田さんに似て、とてもきれいな子だった。

 彼女もわたしを知っていたのか、核心に触れないようにして話しかけてきた。


 千春は口には出さないが、今でも彼のことが好きなのだろう。

 杉田さんの理解者であり続けようとしている。

 そんな彼女の想いがいつか彼に届けばいいと心から思う。


 わたしの両親はたまに会っているみたいで、仲は悪くないようだったが、再婚とかそんな話題が出てくることはなかった。だが、父親は最近、「田舎に住みたい」とか思わせぶりなことを言っていたりする。


 千春を好きだった弘は完全に彼女に失恋をしたと弘から聞いた。

 告白をしたわけではない。彼女から杉田さんと幼馴染だったこと、ずっと好きだったことを聞いて、諦め、友人として一緒に過ごす決意をしたらしい。きっと苦しい気持ちをあっただろう。だが、今の彼はある程度彼女に対する気持ちを吹っ切れているようだ。



 ただ、彼は相変わらず尚志さんに対してある種の警戒感を持っているようだった。今でも彼に何か嫌なことをされたら自分に言えと言ってくれる。もっと怖い「お父さん」がいると知っても、やっぱり心配なようだ。


 一度、人は不信感をもたれると、弁解にかなり苦労するということを身を持って感じ取った。

 尚志さんはその理由を聞いて、「仕方ない」とは言っていた。同時にわたしと弘のそんな関係をほほえましく思っているようだ。そのうちそんな誤解も消えていけばいい。


 千春のお父さんは相変わらずマイペースで、たまにふらっと旅行にでも行ったりするらしい。

 千春もその辺りは諦めているようだった。でも、新刊を出すと、発売日から数日経ってサイン入りで本を贈ってくることもある。


 変わったこともあれば、変わらないこともある。

 わたしは美咲でなくなってからの時間で何か変わっただろうか。


 そう思ったわたしの傍を二人組みの女の子が通り過ぎる。

 そのうち一人の子がすれ違うときにわたしを見ていた。


「あの子、美咲に似ているよね?」

「え? そうかな?」


 彼女たちはマジマジとわたしを見た。

 わたしはそんな彼女たちに気づかない振りをして、紅茶を飲んでいた。


「美咲にしては地味じゃない? 眼鏡もかけているし」

「そうだね。それに、こんなところにいるわけないか」


 そんな感じで彼女たちは納得したのだろう。そのままお店の外に出て行った。

 わたしの前に大きな影が現れた。

 尚志さんの手には本屋の袋が握られている。

 本屋に用事があったのだろうか。


「大丈夫だった?」


 彼女たちの話し声が聞こえたのだろう。

 わたしは頷く。


「帰ろうか」


 似ていると遠巻きに言われたり、直接聞かれることもあった。わたしは心苦しいと思いながらも、否定していた。

 たしかにあの映画に出ていたのはわたしだ。

 だが、もう美咲という少女はこの世に存在しない。



 わたしたちはそのまま店を出た。

 あのときのわたしももうここにはいない。


「今でもあのときのことは、夢みたいな出来事だったなって思う」


 映画なんて年にかなりの本数が作られ、各々が話題を作り上げようとする。わたしはそのうち一本に出ただけだ。だから、映画を観終わった人の心の中の大半からいずれわたしは消えていっただろう。


 それはわたし自身もそうだ。あの撮影の終わった瞬間に、もう一人のわたしにさよならをつげたような、まるで自分が自分でないような感覚。尚志さんとの関係もこじれる一因になったが、あのときを過ごした自分に後悔はない。


 わたしはもっと大事なものを見つけた。かけがえのない友情、父親、そして、いとしい人。そのすべてがわたしにとってかけがえのない存在だ。

 わたしは前方を歩く、彼の姿を見据えた。


「夢か。確かにそうかもしれないな。美咲はもう存在しないから」


 彼は少し間をおいて、言葉をつづけた。


「でも、俺は今が夢みたいだけどね。京香とこうして一緒にいられるようになるとは思わなかった」


 尚志さんはそういうと、にっと笑う。

 たまに尚志さんはそういうことを言ってくれるようになった。だが、彼の顔もほんのりと赤みが増す。

 わたしはそんな彼の言葉に照れながら、彼の手に触れた。


 家に帰ると、わたしの携帯が鳴った。

 発信者は母親だった。


「早めに駅に着いたけど大丈夫?」

「大丈夫だよ。もう家だから」


 彼女と会うのは別々に暮らし始めてからは数えるほどだ。ただ、電話はよくかけてきてくれるし、不思議と寂しいとは思わなかった。

 わたしは携帯をテーブルの上に置いた。


「もう駅に着いたんだって」

「早いな」

「何でも早めに行動しないと気がすまない人だからね」

「片づけようか」


 そう言いかけた尚志さんの視線が本屋の袋で止まった。


「さっき何の本を買ったの?」


 本が好きな彼が本を買うのは別に珍しいことでもなく、軽い気持ちで問いかける。


「本当は本だけじゃなくてさ、これを買いに行ったんだ」


 彼が本屋の差し出したのは小さな紙袋だった。


 そこから掌サイズの小箱を取り出す。

 それをわたしに渡した。

 わたしがそれを確認すると、透明なものが輝きを放っていた。


 それは永遠の愛の誓いをあらわすものとしてよく使われると聞いた。


「いつ買おうか迷っていたんだ。婚約指輪のつもり。君が良ければ大学卒業してから結婚しよう」


 わたしはそれを指にはめる。サイズはぴったりだ。

 ここ最近、千春に指をよく触られていた気はする。


「もちろんすぐにじゃなくて、就職して少ししてでもいいし、いつか近い将来という意味で」

「分かっている。ありがとう」


 わたしは思わずくすりと笑った。

 慌ててそんなことを言う尚志さんがとても愛おしかったためだ。


「お父さんにまたいろいろ言われるね」

「覚悟はしているよ」


 尚志さんは困ったような表情を浮かべていた。


「ありがとう。一生大事にする」


 彼はわたしの指輪をした手に自分の手を重ね、そっと体を寄せてきた。

 わたしと彼の影が重なり合っても、その宝石は輝き続けていた。

 まるで石言葉を表しているかのように艶やかな、そして純潔な光を放ち続けながら。


                                   終



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