千春のお母さん
翌朝、学校に行くと、わたしの机の前に一人の男が立っていた。わたしのクラスメイトの武田弘だ。
体格がかなりがっしりしていて、いかにも体育会系だ。別に荒っぽい性格でもなく、わたしよりもマイペースなところもある。彼とは小学校から同じ学校に通っているため、ほかの友人よりもつながりが深い。お母さんも彼のことはよく知っていた。
「昨日、一緒にいた子友達?」
「友達といえば友達かな」
「名前は?」
弘は目を輝かせ、頬を赤らめていた。
昨日、まさしく千春が演じて見せたような表情だ。
「彼女のこと好きなの? 一目ぼれ?」
「そんなことないけど」
だが、より赤くなった表情はわたしの問いかけを肯定しているような気がした。
本当に彼は分かりやすい。
「わたしが紹介しなくても自分で話を聞けば?」
「どうやって?」
「どうやってって普通に。同じ学校じゃない」
「何組?」
「五組だけど」
「平井さん、女の子が呼んでいるよ」
そのやり取りを別の生徒の声が打ち消した。
わたしは弘との会話を打ち切って席を立つ。
廊下に出ると、眼鏡に三つ網の髪の毛をした女の子が立っていた。
千春だった。
千春はわたしを見ると、手を振った。
「今日、一緒に帰らない?」
「いいよ」
弘のことが頭を過ぎった。
「千春って恋愛に興味ある?」
「そんなもの興味ないけど」
そう千春が口にしたのと同時にわたしのすぐ後ろの扉が開く。
弘が顔をのぞかせたのだ。
弘はこちらを凝視していた。
千春は眉間にしわを寄せて、怪訝そうな表情を浮かべていた。
「何か用ですか?」
「いや、あの」
「わたしの幼馴染でクラスメイトなの」
しどろもどろする弘の代わりに、わたしはそう言い放った。
「そう。よろしくね」
千春は目を細めて、綺麗な笑顔を浮かべていた。
わたしや兄に微笑みかけるときとは全く違う他人行儀な笑みだ。
弘は変な声を出すと、そのまま教室の中に消えていってしまった。
憧れていた美少女に笑いかけられ、どう反応していいのか分からなかったのだろう。
「変な人ね」
「悪い人ではないよ。正義感も強い人だもの」
「それは見ていたら分かるけど。また放課後ね。この近くにある本屋わかる? そこで待ち合わせよう」
彼女はそのまま自分の教室に戻っていく。
わたしが教室に戻ると、弘は案の定わたしの席のすぐ近くにいた。
「彼女、恋愛に興味ないってさ。だから諦めたほうがいいよ」
わたしはそう言うと、席に座った。
弘の興味津々な表情を見ていると、そんなつもりはさらさらないと言っている気がした。
「名前は?」
「成宮千春」
「誕生日は?」
「知らない」
「家は?」
「知っているけど、教えられるわけないでしょう?」
わたしは苦笑いを浮かべて、弘を見た。
「確かに、な」
彼も答えを期待しているわけではなかったのだろう。苦笑いを浮かべていた。
放課後、わたしは学校を出ると千春と待ち合わせをしていた本屋の前に立つ。弘はあれから一日ご機嫌だった。千春と会話ができたのが本当にうれしかったのだろう。だが、千春と付き合うのは難しそうだ。
弘のこれからを案じながらため息をつき、中に入ろうとすると、千春が四十代ほどの見覚えのない男と話しているのが見えた。彼女が不機嫌そうに男を見据えている。
「だからわたしに言わないでください」
「君から伯父さんに口添えしてほしいと言っているんだ」
「嫌です。誰がするか決まったんですか? その具体的な人が決まったなら考えなくもないですけど、若手の綺麗な女の子の売り出しに使うのでは納得しないと思いますよ」
「お金ならいくらでも出す」
「あの作品は伯父にとっても、父にとってもあれはお金には変えられないものなんですよ」
「そこを頼む」
その男が千春の腕をつかんだ。
「離してください」
千春の声が一オクターブ上がる。
彼女が嫌がっているのは明らかだった。
周りの目も二人に集中しはじめていた。
こういうときはどうしたらいいのだろう。べたに警察呼びますよと叫ぶのだろうか。だが、店内で乱暴に及ぶようなことはないだろう。わたしは迷った末、口を開く。
「千春」
男がわたしを見ると、顔を引きつらせた。
そして、千春の手をつかんでいた手を離す。
千春はその男を見据える。
「話があるなら伯父に直接言ってください。わたしにはその権限が一切ありませんから。行こう」
わたしは千春に引っ張られ、その場を後にすることにした。
その店から少し離れた信号で千春が足を止めた。わたしも足を止めると赤になった信号機を視界に収めた。
「聞かないの?」
突き放すような冷たいような口調に、彼女がどれほどいらだっているのが分かる気がした。
「何が?」
「あの男と何を話していたとか」
「聞かれたくないのかな、と思ったから」
千春は寂しそうに微笑んだ。
「あなたには次の日曜日に話をする予定だったのよ。どうせ、いずれ知られることだから」
「わたしに関係あることなの?」
「伯父さんが気に入れば、ね。兄もそう思っているからあなたを伯父に合わせようとしたのだと思うわ」
「伯父さんって何をしている人なの?」
「一応映画監督だけど、無職のような生活を送っているかな。お金はあるから、少し違うのかもしれないけど」
「映画って映画?」
千春はわたしを見て笑っていた。
「他に何があるのよ。立ち話もなんだから、家に来る?」
わたしは千春の言葉に頷いた。
「昨日、言ったこととも関係あるの。昨日、話をしておけばよかったわね」
彼女はそう言うと、苦笑いを浮かべていた。
わたしは昨日と同じように千春の家に行くことにした。
彼女は鍵を開けると、家の中に入った。
彼女は靴を脱ぐと、スリッパを出してくれた。
わたしはそのスリッパを履く。
彼女に連れられたどり着いたのは、二階の一番階段の近くにある部屋だった。
千春はその扉をゆっくりと開ける。
そこには机と戸棚が置いてあるだけの部屋で、部屋の中央にある窓のカーテンもしっかりと閉じられていた。
千春はわたしより先に部屋の中に入ると、カーテンを開けた。
太陽の日差しが部屋の中に差し込んできた。
「ここはわたしの母親の部屋なの」
「母親?」
だが、その部屋はあまりに生活感がなかったのだ。
千春は机の上に置いてあった冊子をわたしに手渡した。
わたしはその題名を見て、思わずその中身を確認した。
「それはわたしの父親が母親のために書いた本なのよ」
水絵さんの唯一の主演作の脚本だ。彼女はこの映画に出た後、一本のCMに出た後姿を消したのだ。
その前には同じ監督の映画に脇役として数本出ていたはずだ。監督の名前は確か成宮秀樹といったはずだ。
成宮?
わたしはその苗字を思い出して、千春を見た。
「成宮って監督の娘?」
「違う、違う。それは伯父さんだよ。でもお父さんもかなりの年でかなり歳の離れた父親だったけどね」
彼女が言っていた映画監督の伯父というのは成宮監督のことだったのか。
わたしの興味を惹きつけたのはそれだけではなかった。
彼女の父親は母親のために書いたと言っていた。
可能性はいくらでもあったはずなのに、気分の盛り上がったわたしは勝手にある答えを導き出していた。
「高木水絵さんが千春のお母さんなの?」
「そう。分からなかった? 結構お母さんにそっくりって言われるのだけど」
「全然分からなかった。言われてみると確かに似ているかも」
「似たくもなかったんだけどね。お兄ちゃんもお母さん似だよね」
千春は壁にもたれかかると、寂しそうに微笑んだ。
その物憂げな瞳を見ていると、心の奥が軽い痛みを感じる。
千春は彼女の娘ということで悲しい思いをしたこともあったのかもしれない。
「おどろいた?」
「かなり。水絵さんはどうしているの?」
「亡くなったよ。今から十年前にね。アルバム見る?」
わたしは驚きのあまり声を漏らした。彼女の言葉を再度思い出し、首を横に振った。
「無理に見せなくてもいいよ」
「わたしに気を使っているの?」
千春は眉間にしわを寄せ、わたしの顔を覗き込む。
「なんか千春を利用したみたいにならないかなって」
千春の人差し指がわたしの額をつついた。
わたしは思わず額を押さえて後ずさりした。
「お母さんは女優といってもほとんど名前も知らない人ばかりだし、たいして嫌な思いはしなかったよ。たまには利用して近づこうって人もいたけど、人ってそんなものでしょう?」
彼女はわたしの心を見透かしたような言葉を告げた。
「そうだね。でも水絵さんが最後に出たCMは結構話題になっていたよね?」
わたしが生まれる前の話だったが、母親からそんなことを聞いたこともある。
「でも次から次に新しい子が出てくるからね。そんなに長い間覚えている人もそこまで多くない。だからあまり気にしないで」
彼女は肩をすくめてそう微笑んだ。
彼女は分厚いアルバムを取り出すと、床の上に置いた。そして一枚のページを捲る。そこには少し古ぼけた写真があって、そこには顔立ちの整った女性と、目がぱっちりとした赤ん坊の姿があった。