元恋人同士の再会
暗闇の中、高い音が鳴り響く。わたしは枕元に置いているはずの携帯に手を伸ばした。その携帯の発信者はわたしの祖母だった。
彼女がわたしに電話をしてくることは珍しい。
「もしもし?」
「京香ちゃん、今、どこにいるの?」
「え? 今?」
わたしは答えにつまった。
映画に出るのは、母親と約束して祖父母にも黙っていることになったからだ。だから、万が一知られることになったときはこういうと約束をしていた。
「友達の家」
「その家は遠いの?」
「遠い」
電話の向こうからため息が聞こえてきた。
「何かあったの?」
「たいしたことじゃないけど、あの子が佳澄が倒れたらしくて」
「倒れたって?」
わたしの顔から血の気が引くのが分かった。
「たいしたことじゃないのよ。体力が落ちているみたい。あなたが傍にいられないなら、わたしたちがそこに行こうとは思うけど」
「ちょっと待って。また後で電話するから」
この前帰ったときにつかれていると感じたことが蘇った。
もっと早く気づけたはずなのに。
わたしは唇をきゅっと噛み締めた。
今は夜の十時半だ。
今から戻れば明日の朝にはこちらに戻ってこれるが、わたしは免許を持っていない。
本井さんにはずは相談しよう。
でもそう思ったとき、思い浮かんだのがわたしの父のことだった。
母親は父親に会いたいのではないかという気がしたのだ。状態が悪いのなら、なおさら。
わたしは父親に電話をすることにした。
受話器から聞こえてきた低い声に安堵した。
「あの、今、部屋ですか?」
「ああ、今から部屋に戻るところだ」
扉の開く音が聞こえてきた。
そして、キーっと扉が閉まる音が聞こえた。
「大きな声を出さないでくださいね」
「分かった、分かった」
「お母さんが倒れたらしいんです」
「え?」
疑問をこめたような声が聞こえてきた。
わたしはその声で、彼に娘だと知っていると伝えていなかったのを思い出した。
「わたし知っているんです。本当の父親のことを」
「分かった。今すぐ行こう」
彼はわたしの声に被せるように強い言葉を発してきた。
彼のさっきの驚きの声はわたしのことではなくて、母のことを聞いて出した声だったのだろうか。
わたしたちはそれから三十分後に家の前で落ち合うことに決めた。
わたしは洋服を着替えると、本井さんの部屋をノックした。
すぐにまだ洋服を着たままの彼女が出てきた。
「どうかした?」
「中でいいですか?」
わたしは彼女の部屋の中に入ると、母親が倒れたこと、そして成宮監督に送ってもらうということを彼女に告げたのだ。
「そうね。送ってもらうだけならかまわないとは思うわ」
彼女はため息を吐くと、腕を組んだ。
「私も行くわ。誰か彼女についていないといけないなら、わたしがつくわ。あなたたち二人がいないと困るけど、私がいなくても撮影に差し支えることはないから」
「本井さんにそこまでさせられません」
「気にしないの。わたしはあなたが仕事をしやすくするのが仕事なの。それともあなたの祖父母に来てもらう?」
わたしは首を横に振った。
場所も遠く、年齢も年齢だから母親の看病なんてできるのかわからない。
「それなら行くわ。あなたとか、もう一人の人が心配だから帰らないとか言い出したら困るもの」
「わたしはともかく、もう一人の人は言わないと思うけど」
「あなたよりあっちのほうが言い出しそうだけどね」
彼女は手早く荷物をまとめ、わたしは本井さんと部屋をあとにした。
わたしと本井さんの到着した約束の十分前にはすでに成宮秀樹が車の中にいた。彼はわたしたちが乗り込んだのを確認すると、すぐに車を走らせた。本井さんが運転を変わろうかと言っても、彼は首を縦にはふらなかった。
わたしはその間、本井さんが突然娘が帰ってきたら驚くだろうと言ったため、明日は休みになったから帰ると電話をしておいた。
わたしたちが家に到着したとき、もう日付は変わっていて、辺りはしんと静まり返っている。
「駐車場はないわよね?」
本井さんは辺りを見渡す。マンションの駐車場はあるが、前もってマンション側に車を持っている旨を伝えないと車を止められないことになっていたのだ。
「はい。車を持っていないんで」
「分かったわ。とりあえず行ってきなさい。どこか駐車場を探して入れておくわ」
わたしと監督は車から出た。そして、家のあるフロアまで行くと、鍵を開けた。
彼女は無理しないでいいのに、と困ったような言葉を並べていたが、強く否定することはしなかった。
想像以上に体調が悪いのかもしれない。
わたしが家の中に入っても、成宮秀樹は玄関の外で立ちすくんだままだ。
「どうかしたんですか?」
「いや、追い出されたりするんじゃないかって思って」
「大丈夫ですよ」
きっと彼女がわたしを愛してくれていたのは本当だ。
同時に彼のことも本当に愛していたのだろう。
だから、こういう未知を選んだのだ、と。そこまで愛した人はそれ以降女性の影をにおわすことはなかった。そんな人が見舞いに来てくれて嫌なわけがない。
彼は不安そうに玄関先に入った。
わたしは彼に玄関先で待ってもらうように頼んだ。
わたしは母親の部屋の襖を開けた。
母親の部屋には布団が敷かれていて、寝息が聞こえてきた。
わたしは彼女の傍らに座ると、彼女の額に手を伸ばした。
触れただけで熱があるとすぐに分かった。
「京香?」
閉じられていた彼女の瞳がゆっくりと開く。
「ごめん、起こした?」
「気にしないで。帰ってきてくれて嬉しいわ」
「体調、悪いの?」
「池田さんがお母さんに電話をしたと言っていたから、聞いたのね。大丈夫よ。もうすっかりね」
池田さんというのはおばあちゃんが喫茶店をしていたころの知り合いで、今でもよくお店に来てくれる常連客の一人だ。
「今日はゆっくり休んでね。気付かなくてごめんね」
「何を気にしているのよ。あなたが気にするべきことじゃ」
そこで母親の言葉が止まった。
彼女の視線はわたしの背後に注がれていた。
わたしは自分の背後でなにが起こっているのか、即座に理解した。
「どうしてあなたがここにいるの?」
「成宮さんも心配してくれていて、送ってきてもらったの」
母親の顔が引きつっていった。
後で怒られるかもしれない。
「説教は後から聞くよ」
わたしは立ち上がると、入り口の前で佇む人の背中を押した。
彼はふらつく足取りで母親の傍に屈みこんだ。
「大丈夫か?」
「ええ」
母親は怪訝そうな表情を浮かべると、目をそらしてしまった。
そのまま布団に横になった。
「昔から体があまり丈夫じゃなかったのに無理ばかりするから。仕事、辞めたらどうだ?」
寝たばかりの母親が体を起こした。
「辞めてどうするのよ」
「生活費なら気にしなくていい」
「あなたに面倒を見てもらう筋合いなんかない。わたしはあなたとはもう無関係なのよ」
そんな言葉とは裏腹に彼女の目が涙ぐんでいるのが分かった。
わたしはこの場にいないほうがいいのかもしれないと思い、立ち去ろうとした。そのわたしの耳に思いがけない言葉が届く。
「無関係じゃないよ。娘もいる」
母親が驚いたように彼を見た。
わたしも同じだ。
彼からそんな言葉が聞けるとは思わなかった。
「誰かから聞いたの?」
「言われなくても分かったよ。だって俺の娘だから。それに君にももう無理をしないでほしい」
わたしは二人の姿をもう一度見ると、そのまま部屋を出た。
家の外に出ると、本井さんが立っていた。
「お母さんは?」
「今、成宮さんが一緒にいます。だから、二人にさせたいなと思って」
「車に戻ってましょうか」
本井さんは優しく微笑み、ハンカチを差し出した。
「ハンカチなんて」
そう言ってわたしは自分の頬に手を当てた。
わたしはそのとき、自分の目から涙が溢れているのに気づいた。
わたしの中にあふれる多くの思いが、こうして形になって現れたのだろう。
「だめですよね。あんなことで泣いちゃうなんて」
「いいんじゃない? あなたらしくて」
「わたしらしいですか?」
「そんな気がする」
マンションの近くに停まっている車に乗り込んだ。
「お母さんの体調はどんな感じ?」
「熱があるみたいです」
「そっか。病院に行ったかは分からないわよね?」
わたしは頷いた。
「一日か二日残るわ。わたしも家の郵便とかチェックしたいし」
「ありがとうございます」
「気にしなくていいわよ。たいしたことじゃない」
彼女はあかりのついていないわたしの家を見る。
「話はまとまると思う? あなたのお母さんって結構気が強いみたいだから」
「いじっぱりですよね。どの程度監督が折れるか次第だと思います」
わたしは泣いてしまった疲れからか、欠伸をかみ殺した。
「あなたは眠っておきなさい。さすがに徹夜はきついでしょう。大丈夫よ。きっと上手くいくから」
彼女は微笑んだ。
わたしは二人の話し合いがよくなればいいと思って、車の後部座席に移ると、そのまま目を閉じた。
かすかな耳に届いたエンジン音で、わたしは目を覚ました。
先ほどまで本井さんが座っていた運転席には彼女より一回りは大きな男性の姿を見つける。
行くときに通った道を通っていた。
「起きたか?」
わたしは頷いた。
「出発する前、教えてくれればよかったのに」
「気持ちよさそうに寝ていたから起こせなくて。悪かったな。それに佳澄も起こさなくていいと言っていたから」
彼がお母さんの名前を呼んだのがくすぐったかった。
「お母さんとの話はどうでしたか?」
「ゆっくり考えるらしいさ。どうするかは」
詳しく聞きたい気持ちはある。だが、今は見守ろうと決めた。
何か変化があれば、どちらかから教えてくれるだろうと思ったからだ。
三日後、本井さんが戻ってきた。そして、その日の夜、母親から電話がかかってきた。
彼女は来年の春には一度、実家に帰ることに決めたようだった。お店のほうはしばらく休業するらしい。ただ、わたしがここに残りたいのであれば、それは構わないと言ってた。
彼の話を受け入れたかは分からないが、今までの母の決意を覆す何かがあったのだろうと感じていた。
成宮秀樹にその話をすると、彼は多くを語らないまでもホッとしたような笑みを浮かべていた。
彼にそんな笑顔を見たのは初めてで、二人の間の今までは気づかなかった絆を見た気がした。
その笑顔はわたしに尚志さんの悲しい笑顔と、かけがえのない人になるようにと望んだ母親の言葉を思い出していた。そして、わたしは尚志さんにとって、かけがえのない存在になりたいと願っていたのだ。




