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幸せなキス

「俺は父親のようにはなれない。そんな君を好きでいられない。きっと君の夢をあきらめろと強要する。君を誰にも触らせたくない」


 尚志さんの手がわたしの手をゆっくりと動かす。

 尚志さんが振り返り、わたしと目が合う。彼の大きな手が頬をゆっくりとなぞる。


「今でもそう思っている?」

「思っている。いらついてどうにかなりそうだった。だから、俺は君にとって障害でしかないんだよ」

「障害なんて、そんなことない。だって、そう思ってくれていたのは嬉しいから」


 わたしは彼を見据えて、そう微笑んだ。

 尚志さんの手がわたしの頭に触れた。


「恋人にはなれないけど、君のファンでいるから。だから、君は自分の道を進めばいい。きっとそのうち、君に相応しい人が現れるはずだよ」

「現れないかもしれない」

「きっと現れるよ」

「尚志さんには相応しい人が現れた? わたしを好きだったのはもう過去のことなの?」


 尚志さんの手が震えた。彼の手がわたしの頭から離れた。


「そんな君を受け入れられるときが来るかもしれない。でも、やっぱり俺が傍にいたらまずいんだと思う」

「どうして?」

「もし、俺と君がつきあったら、どう書かれると思う? あの作品を狙っている事務所はあった。君には想像以上に敵が多いんだよ。君は自分の体を使って、あの役をとったと書かれるかもしれない」

「体?」

「寝取ったってことだよ」


 その言葉にわたしの体が震えた。


 実際はそんなことはないが、傍目にはそう見えてもおかしくない。


「母親が女優を辞めた理由もそうだったんだ。母親のときはまだ伯父に力があった。だから、ある程度は庇うこともできたし、そこまでひどい中傷もなかった。伯父は君を庇いたいと思うだろう。でも、今の彼の力では到底無理だ。もし庇えたとしても、下手に庇うと君の母親まで巻き込むことになってしまう。だから、伯父は君を庇えない可能性もある」


「わたしの父親のこと知っていたの?」

「知っていたよ。多分、君よりも先にね。万が一、君と結婚して、子供が生まれたりしたら、その子もプライバシーを暴かれたり、何か書かれるかもしれない。それは絶対に避けたい。それが俺の人生の望みだから」


 その目は妹と、彼自身を見ている気がした。

 きっとわたしの知らない大変なことがあったのだろう。


「君には才能がある。だから、ずっと応援しているよ」


 彼からの決別の言葉だった。わたしは彼に抱き付いた。


「きっとおじさんたちにばれちゃうな。撮影が終わるまでは絶対君に手を出すなと言われたのに」

「でも、キスしたよね」

「あれはつい……。あの後、二人にこってりと絞られたよ。まあ、彼らがどれほどこの映画にかけているか分かるし、仕方ないんだと思う。とりあえず君には関わらないでほしいと言っていたよ。君はすぐ雰囲気に出るから、ってね。長い間君を俺から離したのもそういうことだと思うよ。何かもうかっこ悪いな」


 尚志さんは髪の毛をかくと、苦笑いを浮かべた。

 彼がソファに座ったため、わたしもその隣に座った。


「そんなことないよ。ずっとわたしは尚志さんとキスしたいと思っていたんだもん。だから、嬉しかった。でも、すごく苦しかった」

「あんなことしてしまったんだもんな。反省しているよ。本当に悪かった」

「だから、もう一度、今度は幸せなキスがしたい」


 わたしは彼の腕をつかんだ。


「君はいたいところをついてくるね」

「ごめんなさい」


 彼はあごをつかむと、そのまま唇を重ねてきた。

 心臓が跳ね、呼吸が苦しくなる。けれど、もっとより彼に触れたいという気持ちから、尚志さんの首に手をまわそうとした。だが、ソファに触れていた手を放すタイミングを見誤り、バランスを崩し、ソファに仰向けになり倒れた。


「京香?」


 尚志さんの手が腕に触れるのが分かったが、わたしを支えるにはいたらなかったようだ。

 目を開けると、尚志さんがわたしの上にのしかかるような体制になっていた。

 彼は目を見張った。

 わたしの胸がより高鳴った。


 だが、尚志さんは笑い出すと、わたしの腕をつかんだ。


「気、抜きすぎ」


 わたしの体を起こそうとしてくれた尚志さんの顔が真っ赤になり、目線をそらされた。

 大きい服だから、お腹が見えていたんだろうか。

 わたしは恥ずかしくなり、胸元を手繰り寄せた。


「気が利かなくて悪かったな。千春に下着を買ってきてもらうよ」


 その言葉でわたしは自分の短パンを見た。

 さっきは乾燥していた短パンが目に見て取れるほど湿っているのが分かった。原因は濡れたままだった下着だ。


「ソファが」

「いいよ。それは」


 彼は携帯でメールを送ると、ため息を吐いた。

 すぐに電話がかかってきた。

 尚志さんは言葉を交わすと電話を切った。そして、すこしして、玄関があいた。


「お兄ちゃん、京香?」

「じゃ、行くから」


 尚志さんはそういうとリビングから出て行く。扉のところで足を止め、会話を交わすとそのまま外に出て行った。代わりに千春が顔を覗かせた。


「すぐに着替えを持ってくるから待っていてね」


 彼女は下着とワンピースを手にリビングに戻ってくる。


「わたしは外にいるから、ここで着替える? シャワーを浴びるなら浴びていいよ」

「このままで大丈夫」


 わたしは着替えると、外にいる千春を呼んだ。


「ごめんね。来るなら言ってくれればよかったのに」


 わたしは謝ると、今日の出来事を一通り彼女に話した。

 千春はふうん、と頷いていた。

 彼女はわたしの向かい側のソファに座った。


「お兄ちゃん、あそこに通っていたんだ。全然知らなかった。本当、あの人はバカだよね」


 彼女は天井を仰ぐ。


「わたしは京香が好きなように選べばいいと思うよ。あなたが幸せになれるならどちらを選んでも絶対に味方になる。もっともおじさんも本井さんもあなたが決めたことなら反対はしないと思うよ。おじさんはお父さんなんだもん」


 彼を父親と呼べる日が来るかは分からないけど、それでも彼はそれを望んでくれているだろうと思った。それまでに全てを決めないといけないのだろう。


 だが、わたしにその答えが導き出せるかも分からなかった。

 家に帰ると、帰宅した母親に水族館のことを聞かれた。

 だからわたしは楽しかったと伝えておいた。

 彼とのキスの感触を思い出しながら、わたしは答えのでない問いかけを延々と続けていたのだ。


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