最良の嘘
わたしが歩を進めるたび、隣を景色が流れていくが、それがどんなものなのか具体的に確認する余裕もなかった。
アスファルトにくっきりとうつっていたわたしの影が次第に薄くなっていった。
不意に頬に冷たいものが触れるが、わたしには鞄から折り畳み傘を出す余裕もなかった。
前髪から滴り落ちる雨粒がわたしの視界に幾度となく飛び込んできた。
この雨がわたしの迷いを何もかも全て洗い流してくれればいいのに。
唇を噛み、弱い考えをそっと戒める。
不意にわたしの足元に灰色の影が伸びているのに気づいた。
わたしはその影の正体を確かめるために顔を上げた。そして、顔を引きつらせた。
そこに立っていたのは尚志さんだった。
わたしは金縛りにあったかのように、ただ彼を見つめていた。
彼は眉間にしわを寄せて、わたしを見ていた。
彼はわたしの体を覆うように傘を差し出した。
「何やっているんだよ。早く家に帰れよ」
彼は吐き捨てるようにそう言った。
今日、見た笑顔とは別人のようだった。
わたしは唇を噛み締めた。
「ごめんなさい」
わたしの腕を尚志さんがつかんだ。
彼は長いため息を吐いた。
言葉を選んでいるようにも、何を言うか探しているようにも見えた。
「家、近くだから千春の洋服でも借りろよ。そんなんじゃ風邪ひくから」
少しだけ彼が呆れたように微笑んだ。その笑顔が懐かしくて、わたしの目からはまた涙が溢れてきてしまったのだ。今、雨が降っていてよかった。泣いていても尚志さんに気付かれないから。
尚志さんが傘をわたしに押し付けた。
それを受け取らないでいると、わたしの掌にその傘をねじ込んできた。
傘の柄の部分が雨なのかぐっしょりと濡れていた。
「尚志さんは?」
「いいよ。これくらいじゃ風邪ひかないから」
「わたしも」
「君が風邪をひくと、伯父が困るからだよ」
わたしはその言葉を聞き、素直に傘を自分の体に寄せた。
前方が見えなくなるほどの激しい雨の中を歩き出していた。
わたしの五十センチほど前方を雨に打たれながら歩く尚志さんの前髪がしんなりとしていた。
「わたし、傘」
「いいよ。そのまま使え」
その言葉に持っていると言い出せずに、首を縦に振った。
千春の家に着くと、玄関の鍵を尚志さんが開ける。そして、扉が開いた。
わたしは傘を閉じ、家の中に入った。
尚志さんは靴を脱ぐと、わたしに「待っているように」と言い残し、奥に消えていった。
そして、タオルをもってわたしの前に現れた。
わたしは差し出されたタオルを受け取ると、髪についた雨を拭った。
「もうすぐ千春が帰ってくると思うけど、それだと風邪引くよな。千春の洋服を買ってに出すのもアレだし、母さんの洋服だとサイズ合わないよな」
尚志さんの目がわたしの体を一瞥した。
「それもきっとお父さんが困るから、大丈夫」
「俺のを貸すよ。千春が戻ってくるまでだから我慢してくれ」
その言葉に胸が高鳴った。
「そのままじゃあれだから、シャワーでも浴びてきたら? 勝手に使っていいから」
彼はバスルームがあると思われる方向を指差した。しかし、そうですかと歩けるほど、無神経な人間でもない。
「本当、世話が焼けるよな」
彼はわたしの心境に気づいたのか、靴を脱ぐように促した。
わたしはサンダルを脱ぐと、床を足に乗せようとして、足が濡れているのに気づいた。
「そのままでいいよ。どうしても気になるなら、タオルで足を拭けばいい」
わたしは足を拭くと、そのまま洗面所に連れて行かれた。
彼は戸棚からタオルとバスタオルを出すと、わたしの腕に押しつける。
「洋服どうする? 洗ってもいいけど」
彼は洗濯機を指差した。
「大丈夫です」
「とりあえず、洋服を持ってきてここに置いておくよ。昔買ったまま使ってないのがあったはずだから」
彼はそう呟くと出て行った。
わたしは脱衣所にある鏡で自分の姿を映し出した。
上着が肌にぐっしょりとくっつき、体のラインが中途半端に出ていて、自分でちょっと変な格好だと笑ってしまった。
洋服を脱ぎ、浴室に入ることにした。
いつの間にかお湯のスイッチが入っていた。
お湯を出すと、熱いシャワーが冷え切ったわたしの体を温めていってくれた。
そのとき、浴室で物音がする。わたしはドキッとして、唇を噛んだ。
「あのさ」
わたしはシャワーの蛇口を捻り、水を止めた。
「風呂、入るなら入っていいよ。もう洗ってあるから、お湯を張るだけで大丈夫だから。無理にとは言わないから好きなように」
彼はそう言い残すと、返事を聞かずに出て行った。
お風呂に入るのとシャワーを浴びるのはまた大きな敷居があり、さすがにそこまで甘えることはできなかった。
シャワーで温まると、浴室を出た。
浴室にあるかごの中に、バスタオルに重ねるようにしてシャツと短パンが置いてある。
下着は濡れたままのを着用することにした。わたしはそのシャツと短パンに袖を通した。
リビングに行くと、尚志さんがいた。
「意外とぴったりだな」
彼は優しく微笑んだ。
わたしには決して見せてくれなくなった笑顔だった。
わたしは唇を噛み締めた。
「テレビを見たいなら好きに見ていいよ。俺は部屋に戻るから」
尚志さんは腰を下ろしていたソファから立ち上がった。
わたしは尚志さんが傍を通り過ぎようとしたとき、彼の洋服の裾をつかんだ。
あのときの彼の言葉が本当なら、こんなことを聞いたらだめだ。
そう思っても口から出てくる言葉をとめることはできなかった。
「わたし、今日、水族館にいたの」
尚志さんの顔が一瞬だけ引きつるのが分かった。あっという間に彼の顔が悲しみで満ちていった。
聞かないでくれ。彼はそうわたしに告げているような気がした。
その表情に相反するかのような、淡々とした言葉を紡ぎ出した。
「そう」
「見たの。あなたを」
「千春が帰ってきたら送ってもらえよ」
彼はわたしの自分の洋服の裾をつかんでいる手をゆっくりと引き離し、そのまま部屋から出て行こうとした。
「わたしはあなたのことが好きだった。ずっと、ずっと好きだったの」
「俺は君のことなんて好きじゃない。なんとも思っていない」
「じゃあ、どうして、あの女の人にあんなことを言ったの? わたしのことが好きだったと」
「あれは嘘だから」
「そんなの信じないよ。もう嘘だけは聞きたくない」
わたしの目から熱いものが零れ落ちた。
わたしは慌てて涙を拭った。
「それが一番いいんだよ。そしたら誰も傷つかなくていい。俺は君のことを好きじゃない。それでいい」
わたしは尚志さんの傍に歩み寄ると、彼の大きな背中に後ろからだきついた。
彼はわたしのことを振り払うようなことはしなかった。
「ずっと苦しかった。忘れないといけないと思っても、何度もあなたが蘇って、一緒にいたいと思ってしまう」
「俺はダメなんだ。問題は君の気持ちじゃない。俺の問題だということも分かっているよ」
尚志さんの手がわたしの指に絡められた。




