すれ違う心
わたしは開いたドアを見ながら、今までのことをゆっくりと思い出す。彼がわたしを軽蔑していることだけは分かったがどうして、最後に優しい言葉をかけようとしたのだろうか。彼なりの別れの言葉だったのだろうか。
「京香?」
わたしが顔を上げると、千春が部屋を覗きこんでいた。
「大丈夫? 起き上がったらだめだよ」
彼女はわたしの元に駆け寄ってきた。
「わたしは大丈夫だよ。どうしたの? 何かあった? 本井さんとお兄ちゃんの声が聞こえたけど。またお兄ちゃんに何か言われた?」
だが、今の出来事を兄を大好きな千春に言えるわけがなかった。
わたしは彼女の三番目の問いに答えることにした。
「本井さんが尚志さんに何か話があるって」
「ええ? どうしてお兄ちゃんがここにいたの?」
「千春を連れて帰ると教えに来たの」
「そうなんだ。でも、お兄ちゃんが京香にひどいことを言わなくてよかった。本井さんも無理にお兄ちゃんを連れて行くことはないのにね」
「急用らしいよ。熱、大丈夫?」
「大丈夫だよ。でも、早めに移動しようとは思う。京香に移したくないし」
彼女は大きな瞳でわたしの目を見つめた。
千春は何かを察知したのだろう。そのまま扉のところに戻り、扉を閉めると、もう一度わたしの傍まで歩み寄ってきた。
「違ったらごめんね。お兄ちゃんに何かされた?」
彼女は鋭い。いつもわたしの心の乱れに気付いてくれた。だが、今日だけは気づかない振りをしてほしかった。
わたしは首を横に振る。
「どうして泣いているの?」
わたしは千春の言葉に自分の頬に触れた。
そこは水で濡れていたのだ。
そんなわたしを千春が抱きしめた。彼女の体はとても温かかった。
「ごめんね。お兄ちゃんは演技が嫌いだから。多分、酷いことを言ったんだよね」
「違うよ。わたしにいい加減自分をあきらめてほしかったんだと思う」
彼の優しい言葉を思い出しながら、そう告げた。
「わたしがお兄ちゃんを呼んだせいだよね。ごめんね」
千春のせいじゃないと言いたくて何度も首を横に振った。
だが、言葉が上手く出てこなかった。
「やっぱりあなたを巻き込むべきじゃなかったね。分かっていたのに、ごめん。お兄ちゃんは優しいから受け入れてくれると思っていた。でも、だから受け入れられなかったのかな」
「なにが?」
「どうしてこの映画を撮りたかったか言ってなかったよね」
彼女は長い息を吐いた。
「父親のためなの」
千春は目に涙をためて、呟いた。
「お父さん?」
「彼は母親の幻影をずっと追い続けていた。母親を愛していたのは分かる。でも、彼女を愛しすぎて彼女の死を受け入れられなかったの。彼が家を出たのもその現実を受け入れなかったから」
千春は首を横に振る。
「それを彼に受け入れさせるために、わたしたちは考えたの。あの映画で彼女以上の逸材を見つけようって。それに反対していたのは兄だったけど、わたしが押し切った。父親に帰ってきてほしかったから。伯父さんはやるだけやらせたら、わたしが諦めると思っていたのだと思う。わたししか演じられないって言っていたから」
以前、千春が言っていた。
父親は母親に魅入られたのだ、と。
その理由にやっと気づいた。
「そんな人、簡単に見つかるわけもない。たまたま立ち寄った文化祭で演劇をやるのを知って期待せずに見ていたらあなたを見つけた。あなたならできるかもしれないって思った。それでいろいろあなたのことを調べて、転校してきたの」
「そうなの?」
「あの会場にいたのも、あなたの話を聞きたかったから。すごい自己主張が強い子だったらやりにくいし」
彼女は優しく微笑んだ。
彼女の表情から笑みが消える。彼女は唇を軽く噛んだ。
「わたし、一つあなたに黙っていたことがあるの」
彼女はまっすぐな目でわたしを見据えた。
わたしは彼女の瞳から目を離せなかった。
「あなたは知っているの? 自分のお父さんのこと」
わたしは言葉につまる。言わないと約束したが、どうしていいか分からなかった。
彼女はわたしから目をそらすと、優しく微笑んだ。
無理に言わなくていい。彼女がそう言ってくれているような気がしたのだ。
「伯父さんの家で京香のお母さんの写真を見たことがあった。京香を始めて見たときに、彼女のことを思い出したの」
わたしの心臓がどくんと鳴った。
「千春、知っていたの?」
「黙っていてごめんね」
わたしは首を横に振る。
「そんなに似ていた?」
千春は頷いた。
「わたしはさっき、あなたの演技を見たって言った。でも、その前にあなたを見て、あなたのお母さんのことを思い出して、それであなたに興味を持ったの。演技を見ていけるかもしれないとも思った。心のどこかで伯父さんに一度会ってほしいって思っていたのも本当なの」
それが千春が初対面だったわたしに、映画の主演という甘い話を持ち出してきた理由なのだろうか。それが理由なら全て納得ができた。
彼女は慌てた様子で言葉を続けた。
「あなたならできるって思ったのも本当だよ。あなたはわたしの想像以上だったから」
「どうして、あの映画なの?」
千春はあの映画で彼女の父親が妻の死を受け入れることができたと言っていたが、わたしにはその理由が分からなかった。
彼女の死を受け入れることととあの映画のつながりが分からないのだ。
「あの映画はお父さんとお母さんにとって特別なものだった。彼女のために書いた映画を他の人が演じることで、お父さんにお母さんの死を受け入れさせようと思ったの」
「それで受け入れられるの?」
「お父さんはできたみたいだよ」
ふと、彼から「ありがとう」と言われたのを思い出した。
彼はできたのだろう。
あの言葉にそんな意味があるとは思わなかった。
穏やかだった千春の顔が引き締まる。
「京香がお兄ちゃんのことを好きだと分かったとき、まずいって思ったの」
「まずいって?」
「お兄ちゃんは演技でも人とキスしたり、そういうシーンとかする人のこと嫌いだって分かっていたから。お兄ちゃんの京香に対する態度を見ているとね、相手が京香なら受け入れてくれるかもって思っていたの。それは甘かったって分かった。お兄ちゃんは映画の話が決まった辺りから露骨に避けだしたんだよね」
わたしが忙しくなった時期と、尚志さんと顔を合わせなくなった時期が一致した。
「最初は優しかったのにね」
「京香だからだよ。お兄ちゃんが京香のこと好きになったから、受け入れられなかったんだよ」
「好きに?」
そんなことあるわけない。だってわたしを軽蔑するためにあんなことをしたのだ。
わたしは思わず唇に触れた。
「だって、好きでもない人が誰とキスしようが気にならないでしょう? でも、それが自分の好きな人ならやっぱり気になるんだよ。それにすごく潔癖なんだ。好きでもない相手を抱きしめたり、デートしたりもしないと思う」
彼はさっきわたしを抱きしめて、キスをしていた。
彼女は何か感じ取ったのだろう。
その場にうな垂れた。
「あのとき、もっとお兄ちゃんのことを話しておけばよかったね。お兄ちゃんの気持ちを勝手に伝えることはできなかったの。ごめんね」
わたしは首を横に振った。
わたしはこの役がやりたかった。
千春のせいじゃない。
「本当にごめん」
彼女の目から涙がこぼれる。
「気にしないで」
千春のせいじゃないし、千春の言うことが当たっていても彼は本当にわたしのことが好きなはずはないから。
それでいいと受け入れようと思ったのだ。
それがわたしの人生だ、と。
「映画が終わったら、少し休むといいよ。そしたらお兄ちゃんとの誤解も解けるかもしれないし」
「そうだね」
本井さんがすぐに行動を起こさないと間に合わないかもしれないとも言われた。
わたしがどうするか決めるリミットは映画の公開前後だ。
「わたしは京香がお姉さんなら嬉しいよ。でも、京香が康ちゃんとつきあうならそれはそれでいいとも思う。お兄ちゃんの何倍も康ちゃんは優しいから、きっと京香は康ちゃんと一緒になったほうが幸せになれると思う」
彼を好きな彼女の言葉がわたしの胸に染みた。
「千春は嫌じゃないの? わたしと杉田さんがキスとかしたりすること」
「だって仕方ないでしょう? 京香以外なら嫉妬しちゃうかもしれないけど、康ちゃんをこの映画に誘ったのはわたしだし、仕方ないよ。うん」
千春は明るい笑顔を浮かべていた。そう思い込もうとしているのだ。
わたしはそれ以上、言ってはいけない気がして、何も言わなかった。
「わたしと京香は従兄弟なんだよね」
「従兄妹?」
「だってそうでしょう? お父さんと伯父さんは兄弟だから」
「そういえばそうだね」
考えたことはなかったが、言われると確かにそうだ。
千春とわたしが従姉妹ということは、同時に尚志さんとわたしも従兄妹だったんだろう。母親が尚志さんが誰の子か気にしていたのはそういうことがあったのだろうか。
「そのことは誰にも言わないでね」
「言わない。でも、伯父は多分気づいていると思うよ」
「言っていたの?」
千春は首を横に振る。
「見ていたらなんとなく分かる。京香のことを精一杯知ろうとしているから。あなたのお母さんに出会って、子供がいると知って嬉しかったみたい」
「自分の子供だから?」
「そうじゃなくて自分の子供じゃないと思ったから、だと思う。自分が不幸にしてしまった彼女が幸せになったと思ったから。彼女に実際会って、京香の誕生日を知って、気付いたみたいだったよ」
母親はきっとそのことには気づいていないのだろう。
そんなすれ違いがとても悲しい気がした。
彼も苦しんでいたのだろうか。母親と同じように。
彼の子を身ごもって一人で育てた母親と、自分よりもはるか年下の女性を好きになって、それでも忘れなかった父親が、どんな気持ちで互いに会い、わたしと接していたのだろう。
二人のことを考えると、とてももどかしい。
千春は母親のようにわたしを抱きしめた。
「伯父さんはあなたが娘だからじゃない。あなたの才能を認めているのよ。わたしを認めてくれたのと同じようにね。 陰口しかいえない人は無視したらいい。でも、分かってくれる人はいるから。わたしもあなたの演技が好き。だからあなたを最終的に選んだの。それだけは覚えていて。わたしはあなたのファン一号なんだから」
子供の時から好きだった彼女にそう言われるのは、この上ない言葉だ。
わたしは唇を噛み締めた。
わたしが考えていたよりも多くの人に見守られている気がして嬉しかったのだ。
千春は一時間ほど経って、本井さんから解放された尚志さんと一緒に帰っていった。
わたしが見送ろうとすると、彼女は見送らなくていいと言っていた。
これ以上わたしと尚志さんの関係がこじれるのを嫌ったのだろう。




