心無いキス
わたしが千春の部屋から出て一時間が経過したころ、部屋の扉がノックされた。
そこには尚志さんが無表情のまま立っていた。
「ちょっといい?」
わたしは目の前の彼を招きいれた。
彼はわたしの部屋の中に入ると、行く先が分からないのか、部屋の中央にぽつりと立っていた。
わたしは扉を閉めた。
「千春のことなんだけど、今日、やっぱり家に連れて帰るから」
「分かりました。彼女のことをよろしくお願いします」
彼はわたしを見て、口を開いたが、何も言わずに口を閉じた。そして、再び口を開いた。
「千春は杉田さんのことが好きなのか?」
「それは本人に聞いてください。わたしが言うのもおかしいですから」
彼には答えが分かっていたのだろう。
彼は短く息を吐いた。
「そうだな。悪かった。だが、あいつも君と同じなんだろう?」
彼はわたしの背後にある窓に目を向けた。
「同じって」
「俳優になりたいのだろう?」
「分かりませんけど、多分そうなのだと思います」
彼も複雑な事情があるのは知っているので、一言では言えない。だが、それを尚志さんに説明する必要はないと思ったからだ。
「君たちはすごいよな」
わたしは顔を上げた。
「なにがですか?」
「人を好きだとか簡単に言えるし、何とも思ってないどころか、嫌いな人間に抱きついたり、キスしたり、体に触ったり、そういうことも平気でできるんだろう?」
彼の暴言のような言葉に体が熱くなるのが分かった。
彼が言っているのはわたしのことではなくて、杉田さんのことなのかもしれない。
それでも彼にそんなことを言われないといけないんだろうという反発心がわたしを支配していた。
同時に胸の奥が苦しくなっていく。彼にそんな風に思われているとは考えもしなかった。
わたしはやっとの思いで、声を絞り出した。
「でも、それは演技だから」
「演技でそんなことができるんだから、すごいって言っているんだよ」
同時に彼がそんな仕事につきたいわたしや杉田さんを軽蔑しているのだと悟った。
それが冷たくなった理由だったのかもしれない。
「平気じゃないです」
慣れると違うのかもしれないけれど、今のわたしは違った。
相手が杉田さんじゃなかったら、嫌でたまらなかったかもしれない。
杉田さんはどうか分からないけれど、少なくともわたしはそうだった。
だが、どんなに嫌でもそのシーンを拒むことなんかできないだろう。
重要なシーンであればあるほどに。
「それが仕事だろう?」
「そう、ですね」
否定できなかったわたしの視界が一気にふさがれた。
彼に抱きしめられていたのだ。
わたしはとっさのできごとが理解ができなくて、ただ、されるがままになり、伝わってくる彼のぬくもりを感じていた。
もう一年以上経つのに、何度忘れたと思っても彼のことは忘れられなかった。千春のように、わたしは一生彼を忘れられないのかもしれない。
「俺がこんなことしても拒まないんだ」
「それは尚志さんだから。好きな人とじゃないとやっぱり嫌だし、でも仕方ないから。キスだって最初くらいは好きな人としたいとはずっと思っていた」
それは紛れもない本心だった。
「じゃあ、俺ともキスしたいと思うのか?」
少し卑屈めいたような声の本意も分からず、わたしはただ、頷いていた。
「ならしてやるよ」
彼はわたしの体を壁に押し当てた。
わたしは突然のことで意味が理解できなかった。
尚志さんの唇がわたしの唇に押し当てられた。
目を閉じた尚志さんを視界に収め、わたしはゆっくりと目を閉じた。
わたしは彼とキスをしているんだ。
胸が高鳴ってきて、心臓の音に体が飲み込まれそうになる。
もう限界だと思ったとき、尚志さんの唇がわたしの唇から離れた。
「尚志さ……」
わたしの彼を呼ぶ声も尚志さんの唇に遮られた。
彼はもう一度わたしに唇を押し当ててきたのだ。
今度はさっきのような触れるだけのキスではなかった。彼の舌が吐息とともにわたしの口の中に入ってきた。
全身が熱を持つのが分かった。さっきとは比べ物にならないほど心臓が高鳴り、頭が朦朧としてきた。
わたしは何もできずに、ただ彼にされるがままになっていた。
彼はわたしから体を離した。
わたしは視界が霞んだ目で彼を見つめた。
だが、彼はわたしと目を合わせようとはしなかった。うつむいたまま、わたしの首筋に顔をうずめてきた。冷たい感触とあたたかい息が首を這うのに気付き、思わず体を震わせた。呼吸が荒くなり、自分の体がより熱くなるのが分かった。
何をされているかよりも、ただ現状を受け入れるだけで頭がいっぱいになっていたのだ。
だが、触れていた彼の吐息を感じなくなる。
目を開けると、尚志さんが皮肉っぽい笑みを浮かべてわたしを見ていた。
そのとき、わたしはどうして彼がわたしにキスをしたのか分かった。
「これでいいだろう?」
わたしは唇を噛み締めた。
好きでもない相手とキスすることで、わたしを皮肉ったのだろう。
彼なりに。
わたしの目から涙が溢れそうになった。
始めてするキスは幸せなものだと思った。相手から愛されて、それを確認するための行為だと思っていたのだ。だが、心のないキスは想像以上に苦しくて、わたしの心を苦しめていく。
わたしはそのまま部屋を出て行こうとしたが、尚志さんがわたしを後ろから抱き寄せた。
彼の柔らかい髪がわたしの首に触れた。
わたしはその感触を感じながらも何も言うことができず、されるがままになっていた。
静かな部屋の中に押し殺したような声が響き渡いた。
「君は君の人生を歩めばいい。俺のことなんてすぐに忘れるだろう。君のことを何でも受け入れてくれる人を、想ってくれる人を好きになったほうがいい」
さっきわたしを見て、皮肉っぽい笑みを浮かべた人の言葉だとは思えなかった。
「わたしは」
わたしの部屋の扉がノックされた。
「ちょっと話があるのだけど」
本井さんの声だ。
用事を終えて帰ってきたのだろう。
尚志さんの体がわたしから離れた。
彼はそのまま部屋を出て行こうとした。
彼が扉を開けたとき、本井さんが驚いたようにわたしと尚志さんを見た。
「どうかしましたか?」
自然に話したつもりなのに、声が上ずってしまっていた。
彼女はにっこりとすごみのある笑みを浮かべた。
彼女の視線が部屋を出て行こうとした尚志さんに向けられる。ちょうど本井さんが扉の前に立ちふさがり、尚志さんが出て行けないようになっていた。
「急用を思い出して、彼に言わないといけないことがあったの。ちょっと借りていくわね」
「はあ? なんであんたと」
「来るわよね?」
本井さんが尚志さんの手を力いっぱいつかむのが分かった。
「分かったよ」
抵抗しようと思えばできたけど、しなかったのだろう。
彼はそのまま本井さんに連れて行かれ、わたしが一人で取り残されてしまった。




