ずっと抱き続けた想い
わたしたちは周辺を散策しつつ、別荘に戻った。だが、別荘の前に見慣れない車があるのに気づいた。
わたしは杉田さんと中に入る。出るときはかかっていたはずの別荘の鍵が開いていたのだ。
「僕が先に入るよ」
「わたしも行く。一人は怖いから」
「わかった」
わたしたちはまず千春の部屋に行くことにした。今、別荘にいるのは彼女一人だけだからだ。
千春の部屋の前に来ると、迷ったがノックせずに扉を開けた。
彼女の部屋はがらんとしていて、ベッドに盛り上がりがある。そのときやっと、彼女の傍にいる人影に気づいた。
「尚志さん?」
その名前を口にした途端、今まで忘れていた胸の痛みが蘇った。
なぜ彼がここにいるのかわたしには分からない。
何も言えずにただ彼を直視する。
彼はわたしと目が合うと、目をそらす。彼の視線は妹に向けられていた。
「昼過ぎに電話がかかってきて、俺の家に来るって言っていたから迎えに来たら、倒れていた」
わたしの意識が千春に戻る。彼女が眠いと言っていたのはそういうことだったのだ。
杉田さんが部屋に入って来ようとするのを、尚志さんが制した。
「君たちは外にいたほうが良い。俺が面倒を見るし、病院に連れていく」
「どうして? わたしだって」
千春のことが心配なのだ。
「……風邪が移ったら大変だからだよ」
千春は布団の下から熱っぽい目をのぞかせた。
彼女は優しく微笑む。
「熱があったなら、言ってくれればよかったのに」
「……ついさっき、気づいたの。朝から何かおかしいなとは思っていたけど。だから、体調が悪くなる前にお兄ちゃんに迎えに来てもらおうと思ったのに。ごめんね。京香に迷惑かけたくなかったから」
「ごめんね」
彼女はわたしのためにいろいろしてくれたのに、わたしは彼女が体調を崩しているときさえ、何もできなかった。
「お大事ね」
本当は少しでも千春の傍にいたいが、彼女の優しさを無視するようなことはしたくなかったのだ。
わたしは尚志さんに頭を下げると、その場から立ち去ろうとした。
心配そうな杉田さんの表情が目にはいった。
「少しだけ千春の看病をしてくださいませんか?」
「康ちゃんが体調を崩したりしたら」
「構わないよ。妹の看病ばかりしていても移らなかったんだから」
千春も心のどこかで彼に看病をしてもらいたいと思っていたのか、それ以上、強く拒否をすることはなかった。
「尚志さん」
わたしは彼の名前を呼んだ。
彼も妹の心境に気づいたのか、それ以上は何も言わなかった。
「少し経ったらまた戻るよ」
わたしは尚志さんと一緒に千春の部屋を出た。
だが、彼は足を止めた。
わたしや杉田さんのいる別荘で、どこにいていいのか分からないのだろう。
「俺の父親が使っている部屋は?」
わたしは彼がいつも使っている奥の部屋を指差した。
「ありがとう」
彼はそう言い残すと、奥の部屋に消えていこうとした。
わたしは彼を呼び止めた。
彼は意外そうな顔をしてわたしを見た。
「喉、渇きませんか?」
「別に」
彼はそのまま部屋の中に入っていこうとした。
彼の動きが止まる。
「千春は喉が渇いているのかも」
「運んでおきますね」
わたしはそう言うと、彼に背を向けて、階下に下りていくことにした。
別になんてことのない普通の会話だったが、心がほっとなごむ。
どこかで彼と話をできると期待していたのかもしれない。
わたしがコップに水を注いでいると杉田さんがおりてきた。彼は千春に水を飲ませるためにおりてきたようだった。
わたしは水を注いだばかりのコップを差し出した。
「千春のお兄さんと話をしてきたら? 話をしたいって顔をしているから」
「……無理ですよ。何を話していいのかも分からない」
「そっか。人との関係って難しいね」
彼はぽんとわたしの頭を撫でると、千春の部屋に戻っていった。
わたしは少しずつ尚志さんのことが忘れられていると思った。だが、結局、わたしは何も変わってはいなかったのかもしれない。ただ、そう思い込んでいただけだと思わざる負えなかった。
わたしは一時間後に千春の部屋をノックする。尚志さんが千春の部屋に入る前に彼女と話をしたかったからだ。か細い千春の声がわたしを招き入れた。
わたしは音をたてずに千春の部屋に入る。
そこには杉田さんが、千春のベッドに伏せるように眠っていたのだ。
わたしが彼を起こそうとするのを千春が制した。
「きっと疲れていると思うから、もう少し寝かせておいていいかな」
「いいけど、体調は?」
「平気」
わたしは千春の額に触れた。彼女の額はやはり熱っぽい。
「無理はしないでね」
千春は頷いた。
「康ちゃんは頑張り屋だから、いつも人の何倍も頑張っちゃうんだよね」
優しい笑みで彼の寝顔を見つめていた。
わたしが今までに見たどんな笑みよりも優しい笑み。
それが彼女の彼に対する思いの深さなのかもしれない
眠っていた杉田さんの体がもぞもぞと動く。
彼は顔を上げると、辺りを見渡した。自分が眠ってしまっていたことに気づいたようだ。
「ごめん。つい」
千春は首を横に振る。
「気にしないで。自分の部屋で眠るといいよ」
杉田さんはもう一度千春に謝ると部屋を出て行った。
わたしは扉が閉まって、千春を見た。
「一つ、聞いていい?」
「何?」
「千春って杉田さんのこと、好きだよね?」
彼女は目を見開いたが、ゆっくりと頷いた。
「でもね、京香が康ちゃんのこと好きな気持ちは分かるし、二人がつきあうのはそれはそれで嬉しいよ。二人とも好きだから」
きっと彼女は叶うことがないと思っているのだろう。
自分の気持ちが。
その言葉が弘の言っていた言葉を思い起こさせた。
「いつから?」
「きっと五歳のころから似たような気持ちがあったの。会えなくなって寂しくてもどこかで諦めないといけないと思っていた。でも、結局変わらなかった」
「言ってくれればよかったのに」
「だって、自分を好きになってくれない人を思い続けたら迷惑だと、忘れないといけないと。映画のために会うようになって、やっぱり彼と一緒にいたいな、って思うようになって、自分の気持ちを実感したの。最初はこれが好きって気持ちなのか分からなかった」
千春の目に涙が浮かんだ。
彼女は言葉を選びながらも何度も同じような言葉を繰り返していた。
理知的で無駄な言葉を話さない彼女がそんな風に話すのを初めて聞いた。
彼女は自分の目に涙が浮かんでいることに気づいていないのかもしれない。
「好きなのかなって気づいたのは、本当に最近だったから。昔、京香に好きな人がいないって言ったのも嘘じゃなかったの」
わたしは千春の頬に触れた。
「昨日、変なこと言ってごめんね。忘れて」
「そんなことないよ。だって、京香の気持ちも分かるから」
彼女がこんな強い思いで彼のことを好きなのを知り、彼を好きだと言った気持ちを恥じていた。
「わたしはまだ好きか分からないから。でも、すごく話しやすくて、一緒にいると安心できて」
「その気持ち分かるよ」
千春はにっこりと微笑む。
「でも、わたしはまだ」
彼のことがやっぱり忘れられなかった。中途半端で自分が嫌になる。
千春はわたしが何を言いたいのか分かったようだった。
「あんな最低な人はとっとと忘れたほうがいいと思うよ。お兄ちゃんは好きだし、気持ちも分かるけど、京香にあんな態度取ったのは許せない。わたしは本当に康ちゃんと京香がつきあってくれたら嬉しいと思うよ。それは本当なの」
彼女はわたしの手を握り締めた。
「京香がお兄ちゃんのことをきっぱり忘れられないのも仕方ないと思うよ。康ちゃんも気持ちが残っていたとしても分かってくれると思うよ。何よりも悪いのはお兄ちゃんなの」
千春の言っていることは分かる。でも、わたしは。
唇を噛み締めた。
「だから、わたしのことは気にしないでね。好きになったらいつでもそうしてほしい」
「分かった」
わたしは千春の手を握り返した。
「ゆっくり眠るといいよ」
彼女はそのまま体を横になると、目を閉じた。
「いろいろありがとう」
彼女はそう言うと微笑んだ。
わたしも同じように千春に幸せになってほしいと思っていた。そして、彼女をそうすることができるのは一人しかいないこともまた、分かっていた。
わたしが千春の部屋を出ると、部屋の外には尚志さんがいた。
彼に頭を下げると、そのまま自分の部屋に戻った。
部屋に入ったときに千春が変なことを言っていたのに、気づいた。
「お兄ちゃんの気持ち」って何だろう。
だが、それを尚志さんに聞くのはおかしいし、元気になった千春に聞こうと心に決めた。




