好きという気持ち
大学はもう夏休みに入っていた。その分、千春はここに入り浸りになっていた。
彼女の父親もたまに顔を見せるようになっていた。また仕事を始めることにしたらしい。とりあえず昔のツテを当たっているものの、なかなか上手く行かないようだ。生活するお金には困らないので焦ってはいないが、彼も動くことで満足しているみたいだと千春が言っていた。
家族の関係がうまくいっているのだろう。
弘と千春はあれから何度か遊びに行っているようで、弘から何度か電話がかかってきた。
彼は千春の好きな人とうまくいってほしいという気持ちは変わらず、彼女に対して良い友達として接しているらしい。
そんな弘の姿を見ていると、尚志さんが女の人と一緒にいたのを思い出していた。
あのときはわたしを見てほしくて、わたしは彼が好きな人とうまくいってほしいとは考えられなかった。
弘はそんなわたしよりずっと大人だと思う。
「京香は康ちゃんのこと好き?」
ジュースを飲みながらそう問いかけた千春を見て、思わず彼女を凝視した。
「どうしたの急に」
「気になったから聞いてみたの」
嫌いじゃない。多分逆だとは思う。千春は彼のことを好きなのではないかという気持ちが心の中を過ぎるが、彼女は嘘をつくのは望んでいないだろう。
「好きかな。恋愛感情かは分からないけど、一緒にいるのは安心する」
「そうなの? よかった。じゃ、これでばっちりだよね。結構心配しちゃった。突然できないとか言い出すんじゃないかってね」
「え?」
「キスシーン」
千春の細い指がわたしを指さした。
忘れていたわけではないが、言われて頬が赤くなるのが分かった。
キスか。結局、誰ともキスをしないままここまできてしまった。
尚志さんとしたらどうかと言われていたころさえも懐かしい。
「大丈夫だよ。何なら予行練習でもしたら? 康ちゃん、つきあってくれると思うよ」
「そんなこと言えないし、いいから」
彼女はそう屈託のない笑顔を浮かべていた。
彼女が杉田さんのことを好きだというのはわたしの思い過ごしだったんだろうか。
ふつう、好きな人がキスをしたなんて話は聞きたくもないはずだ。
「でも、カメラの前で最初のキスってのも嫌じゃない?」
「嫌だけど……」
ふっと彼とキスするシーンを想像して、首を横に振る。
何を考えているんだろう。もっと割り切らないと。
彼とキスすること自体は抵抗もなくなっていた。
「康ちゃんも京香と同じみたいだから、悪い案じゃないと思うよ。予行練習」
「同じって」
「したことないって言っていたんだ。今まで彼女いたことがないからね」
そのとき千春の視線が横にずれ、彼女が手を振った。
その先にいたのは杉田さんだ。階段から降りてきた彼はわたしたちのところまでやってきた。
「どうかした?」
わたしは彼の気配を感じつつも顔を上げることができなかった。
「京香が買い物に行きたいんだってさ。一緒に行ってきたら。わたしは眠たいから、部屋で一眠りしてくるね」
彼女は有無を言わさず、ジュースをさっと飲み干し、その場から足早に去っていった。
その場にはわたしと杉田さんが残されていた。
「買い物って何買うの? 監督か本井さんに頼んだほうが良いかも」
二人は用事があって別々の場所に出かけているためだ。そのため、車ももう残っていない。
「それは千春が勝手に」
さすがにキスの予行練習のことはいえずに口ごもった。
「だったら散歩でもしてこようか。眠たいのは本当みたいだし、一人のほうがゆっくりできるだろうし」
わたしは杉田さんに誘われ、出かけることにした。
まだ今日は正午を回ったばかりで、時間がある。そのため、山道に入ってみることにした。声を出すと、それだけでも響きそうな静かな森だ。木々の間から漏れいる涼しい風が優しく頬を撫でていった。
わたしたちは奥へと進み、見晴らしのいい丘まで来ると足を止めた。
「すごいね」
「こんなところがあったんだね。いつも近くで行動していたから気付かなかったよ」
杉田さんも遠くを見て目を細めた。
「こういうところで暮らしてみたいな。もう撮影が終わったら来れなくなるんだよね」
「千春に頼めばいつでも連れてきてくれそうだけど。どうしても来たかったら、母親の実家に遊びに来たらいいよ。妹もそこで暮らしているんだ」
「杉田さんの母親の実家? 妹さんの関係で?」
「それと父親もその辺りに転勤になったからね」
「映画の設定みたいだね」
杉田さんはわたしの言葉を聞いて笑っていた。
「家はどんな感じ?」
「普通かな。家族の仲はいいほうだとは思うよ。君の家には負けるけどね」
そう言われると少し照れくさかった。
「ありがとう。わたしはお母さんが好きだし、お母さんの子供で産まれて幸せだったもの」
「君のそんなところが本当に好きだな」
わたしはその声に杉田さんを見た。
彼は優しく微笑んでいる。
人として好きと言われたんだろう。それでも過剰に反応してしまっていた。
「人って、他の人のことばかり羨ましがるのに、君は自分で自分の幸せを気づいているから。だから、君に惹かれたんだと思う」
わたしの気持ちを覆す声が届いた。
彼は照れた素振りもなく、明るい笑顔を浮かべていた。
千春に嘘はつかなくてよかった。
わたしは彼を好きなのだと改めて実感したのだ。




