将来への迷い
わたしは時計を見ると、チャイムが鳴るのをただ待っていた。
もうそろそろ千春が到着する時間だ。今日は昨日とはうってかわって快晴だったこともあり、おのずとこころが弾んだ。
玄関で物音が聞こえ、わたしは千春が来たと疑わず玄関まで行った。
だが、玄関に立っていた人影を見て、わたしは言葉を失った。
そこに立っていたのは小柄な少女ではなく、長身の男の人だった。彼が来てもおかしくはないどころか、むしろ、当たり前だったのだ。
わたしの中で今まで忘れていた痛みが蘇った。
わたしは彼を直視することができなくなかった。
彼も気まずかったのだろう。わたしから目をそらした。
「千春のお父さんはリビングにいます」
わたしは部屋に戻るか迷ったが、さっきまで千春のお父さんとリビングにいたこともあり、リビングに戻ることにした。
尚志さんも後を追うようにリビングに入ってくる。彼は自分の父親のいるところまで直行した。
彼の目が滲んでいるように見えた。千春と同じように、彼も長い間、自分の父親と会っていないのだ。その胸中には様々な気持ちが入り乱れているだろう。
「尚志、大きくなったな。お母さんに似てきて」
そんな彼の言葉を打ち消すかのような強い言葉が聞こえてきた。
「どれだけ心配したか、迷惑かけたかわかってるのかよ。千春だって、毎日泣いて。あいつは。あなたはいつもそうやって気まぐれで」
尚志さんの目に涙がたまっていた。
彼はどれほど彼女を慈しみ、守ろうとしたのか。
あんな終わり方になってしまったが、彼を好きになってよかった。彼はこうやって妹のことを何よりも考えられる人だったと気づいたためだ。
「本当に悪かったと思っているよ。お前たちに迷惑をかけて。これからはもうどこにも行かない」
「俺はいいよ。もう一人でやっていける。でもそれは千春に言ってやってくれ」
「今まで悪かったな」
尚志さんはうなずく。
「千春はそろそろ来ると思うよ。電車の中で見かけたから。俺は部屋に行くよ」
そう尚志さんが口にしたとき、再びチャイムが鳴った。
わたしは再び玄関に行く。そこには千春と杉田さんの姿があったのだ。
千春は息を切らし、わたしの腕をつかむ。
「お父さんは?」
「中にいるよ」
わたしはリビングを指差した。
彼女は荷物を抱えたまま、リビングの中に入っていった。
わたしと杉田さんは顔を見合わせると、彼女の後を追うことにした。
だが、わたしたちの前を走っていた千春の動きが止まる。彼女は父親を直視していたようだ。
彼女の中にはいろんな気持ちが渦巻いていて、彼女は発すべき言葉を模索しているのだろう
「ただいま」
「もういいの? お母さんのことは受け入れられたの?」
「もう受け入れたよ。本当にすまなかった。ずっとほったらかして悪かった」
杉田さんがわたしの傍に寄ってきて、肩を叩いた。これからは家族の時間だと伝えたかったのだろう。
わたしたちは杉田さんの部屋に行くことにした。
「お父さんか。いいね」
部屋に入ると、そう短く息を吐く。
「君の家は、お父さんがいないんだっけ?」
わたしは首を縦に振る。
「話ができたらしてみたい?」
「聞きたいことはいっぱいあるよ」
「そうか。僕の妹はあまり父親と話をしないから、君くらいの人はそんなものだと思っていたよ。千春は別としてね」
「妹がいるの?」
「うん。二歳年下の妹がね」
わたしたちより一歳年下だ。
「どんな子?」
「ちょっと、いや、かなりわがままかもしれないね。でも、それはそれで彼女らしいかなって」
「妹さんのこと、大好きなんだね」
「そういうわけじゃないけど、昔から手がかかっていたから心配になるっていうか」
彼の妹がわがままで手がかかるとは思えない。イメージ的には行儀正しいという気がする。
「いいな」
わたしに普通にお父さんがいたら、彼らのように兄弟がいたのだろうか。そう思うとなんだか不思議だった。
「大丈夫? 千春のお兄さんと会うのは久しぶりなんだよね」
「大丈夫」
「散歩でもしようか。外の空気を浴びると気分転換になるかもしれないよ」
「ありがとう」
彼はわたしの蘇った心の痛みに気づいてくれているのだろう。だが、部屋を出ると、千春たちが外に出ているのに気付いたのだ。
「今日はここに泊まればいいじゃないか」
そう言ったのは千春のお父さんで、相手はどうやら尚志さんのようだ。
その言葉にわたしの胸が高鳴る。同時に息苦しさを覚えた。
彼と話ができるかもしれないという期待と、また無視されるかもしれないという不安だった。
次に聞こえてきた言葉はわたしの期待をあっという間に裏切ると同時に安堵させた。
「俺はホテルをとっているから、一度チェックインしてくるよ。何かあれば戻ってくる」
「どうしてホテルなんて」
「状況も分からなかったから念のためにね。父さんたちはどうする?」
千春とお父さんは顔を見合わせた。
その千春の視線がわたしたちのほうを見た。
千春は父親に何かを囁くと、荷物を置き、階段をあがってきた。
「京香、ごめん。話はまた今度でいい?」
「いいよ。気にしないで」
どうやら千春とそのお父さんは一緒に尚志さんのホテルに行くことにしたようだ。
家族でそう決めたのなら、それが一番だと思う。
尚志さんと同じ家ですごさないことにほっとしながらも、わたしは三人が家を去ったあとも、尚志さんのことばかり考えていた。
わたしの部屋の入り口でこつりと音が鳴る。そこには開きっぱなしになった扉に手をかけた杉田さんの姿があった。
「監督がごはんだって」
「ありがとう。今から行くね」
だが、部屋を出て行こうとしたわたしとは対照的に杉田さんは入り口付近で固まったままだ。
「会いたいなら、車で送るよ」
「そんなことないよ。振られたし、それなのに後をついていったらストーカーみたいだもん。まともに話もできないと思う」
「きっと迷惑がらないとは思うよ。それに、彼との誤解を解けるのは今のうちだけかもしれない」
わたしはその言葉の意味が分からず、杉田さんを見た。
「どうして?」
「この映画が撮り終わったら、君にもいくらか仕事のオファーがあると思う。そうしたら今のように好き勝手には会えなくなるかもしれない」
「そんなことないよ」
仕事のオファーが来るとは考えにくかった。
わたしは来年、何事もなかったように大学に通っているのかもしれない。そう考えると勉強をもっとしないといけない。
「杉田さんには来ているの?」
「いくつかはね」
「どんな仕事?」
「それは今のところは秘密。ごめんね」
「わたしも無神経に聞いてごめんなさい。でも、すごいね」
「昔、会ったことある人からだから、それや藤井さんのつてかもね」
「仕事、受けるの?」
「迷っているところ。きっと本井さんからも近いうちに聞かれると思うから、今のうちに考えておいたほうが良いよ」
わたしは頷いた。
女優になりたくて、その夢が叶いかけている。
二年前なら、わたしは続けると言えただろう。だが、いまのわたしにははっきりと言葉で表せない迷いが生じ始めていた。
千春と尚志さんは次の日に帰っていった。




