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噂と過去

 次に目をさましたとき、辺りは少し冷たい風に包まれていた。時刻は四時を回ってた。

 窓からは傾いた太陽の光が窓辺に差し込んでいた。


 ベッドから体を起こしてみるが、昼に比べてずいぶん楽になった気がする。

 六時から撮影をすると言っていたシーンがある。

 今からなら間に合うだろう。


 別荘の中には人気がほとんどなかった。

 まだ撮影をしているのだろうか。そう思い、玄関の鍵をかけて撮影現場に行こうとしたとき、人の話し声が聞こえた。


 わたしはスタッフの誰かかもしれないと思いつつ、声のした方向に歩いていく。だが、わたしの予想は外れていたことに気付いた。


「でも何であんな子なの? 演技も並じゃない? 顔だってわたしのほうがかわいいし」

「あんた狙ってたものね。あの役」


 腕を組み、不満をあらわにする沢井ひろみの傍にいたのは田中文子という同級生役の子だ。


「あんたもでしょう?」

「でもわたしの事務所はそこまで大きくないしねえ。できればいいなとは思っていたけど。でも、あの子はさっぱりよね。もう少し華のある子ならね。かわいくてもなんか地味なのよね」


 彼女が言うことは否定はしないけど、かなりの言われようだった。

 千春からも本井さんからもいろいろ言われるだろうから気にしないようにと言われたから気にしないようにはしようとしていた。


「あの子が選ばれたのは、あの女に取り入ったからだよね」

「あいつか。超生意気だよね。なんでもあの子と高校が同じだとか」


 あの女というのが千春のことだとすぐにわかる。


「友達だからって選ぶってありえない。無理に押したらしいし。絶対わたしのほうが相応しいって。監督も監督よ。姪の頼みなんて断ればいいじゃない」


 わたしが千春の友人というのは多くの人が知っている。だが、成宮秀樹の娘ということが知られれば、かなりややこしいことになるのかもしれない。母親が嘘をついたのは、理由は違うかもしれないが、英断だった。


「それなんだけどさ、他にも噂があるんだ」


 文子の声が一トーン低くなる。


「何?」

「あの子の母親と監督ができているらしいよ。それでこの役をもらったって」


 その言葉にわたしの心臓がどくんと鳴った。

 誰がそんな噂を流したのだろう。

 そのことを知っているのはわたしとお母さんだけのはずだった。千春たちにも言っていない。


 わたしはぞっとして肩を抱いた。

 笑いを堪えたような吐息がこぼれる。


「そうなの? さすが。お金でどうにかならないと思ったら体を使ったの? でもあの子の母親ってわたしたちの母親と同じくらいでしょう? おばさんじゃない」

「あんまりそういうことを大きい声で言ったらまずいって」


 慌てたように彼女を制する文子。


「大丈夫だよ。誰も聞いてないし。こんなど田舎だもん」


 わたしが悪く言われるだけならいい。だが、そこにお母さんを巻き込みたくなかった。

 わたしを慈しみ、育ててくれた母親を侮辱されるのだけは許せなかった。


「喉が渇いた。戻ろっか」


 そう言った二人の目の前に立ちふさがった。

 彼女たちの表情が引きつっていた。


「勝手なこと言わないでよ。誰から聞いたの?」


 お母さんは本気で彼のことが好きだったと思う。そして、わたしのお母さんになってくれたのに。


「何本気になっているのよ。冗談でしょう?」


 田中文子は慌てた様子でつけくわえた。


 だが、彼女のそんな努力もむなしく、沢井ひろみは鼻で笑った。


「見に覚えがないなら黙っていたらいいじゃない。まあ、この映画の完成を楽しみにしているわよ。どうせコケて、誰も話題にしなくなる。わたしも自分の役だけはしっかりとやり遂げるから」


 彼女はにやついた笑みを浮かべて、去っていこうとした。

 彼女に対する不満があふれそうになるが、うまく言葉が出てこない。

 そのとき、凛とした声が辺りに響く。


「あなたってあの沢井ひろみさんだよね?」


 わたしは驚きながら、声のした方を見た。

 それはあの二人も同じなのか、唖然とその少女に視線を送っている。


「わたしも知りたいな。誰がそんな噂、流したの?」


 そこには今、ここにいないはずの千春の姿があったのだ。

 そのそばには杉田さんもいる。彼もあの話を聞いていたのだろうか。


「何であなたがいるのよ」

「わたしのお父さんの別荘だもの。遊びに来ても何らおかしいことはないでしょう?」


 千春の返事に彼女たちは押し黙る。

 千春はひろみと文子を睨んだ。


「あなたたちの事務所の人もしつこかったわよね。あなたを選ばなかったことをまだ根に持っているの?」

「友達ってだけで主役になれていいわね」


 ひろみは千春を見ると、強気な笑みを浮かべた。

 彼女の言葉を千春は鼻で笑う。


「友達だから選ぶなんてことはしないわ。彼女しか演じられないと思ったからよ。あなたがわたしの親友でも選ばなかったと思うわ。そんな卑屈な人間に彼女が演じられるとは思わない。あなたって性格が顔に出ているのよ。果歩とは正反対の人間じゃない」

「何を勝手なことを」

「お父さんが二人の演技を見て脚本を書き直してくれたの。それが答えでしょう?」


 その言葉に二人は黙った。


「で、さっきの続きだけど、誰がそんなことを言ったの?」

「わたしはひろみから」


 文子が隣に立つひろみを見て、そう告げる。


「じゃ、あなたは誰に聞いたの?」


 千春は笑顔でひろみに話しかける。

 ひろみは顔をひきつらせ、口ごもる。


「どうせあなたが言いだしたんでしょう? そんな低俗なことをする人の気が知れない」

「低俗ってあなたに言われたくなんかない。伯父や親のコネで仕事をもらって、映画にも出て。今回の映画だって本当はあなたで撮る予定だったんでしょう? それなのに」


「何年前の話よ。わたしは女優にはなるつもりはないわ。別にあなたが彼女のイメージにぴったりなら問題なく選んだ。でもあなたたちにはあの役無理だと思うし、それを確信した。あの程度のシーンであんなに失敗して。果歩は何十倍のセリフがあるか分かっているの?」

「どうしてあなたがそんなことを知っているのよ」

「伯父さんに聞いた」


 千春は一息おいて話を続ける。


「本当は分かっているのでしょう? 彼女に勝てないって。もし、あなたが本気で勝てると思っているなら、最初から伯父に直談判するわよね。こんな陰湿な嫌がらせをせずにね」

「嫌がらせなんてしてないわ」


「いじめのほうがいい? まさか本気でNGを出していて、主役に選ばれないことを怒っていたらこれ以上笑えることはないわ。本気ならちゃんと仕事をしなさいよ。わたしにあなたを選ばなかったことを後悔させるようにね」


 二人の表情が引きつった。

 二人はわたしと千春を睨むと、小走りに去っていく。


「本当に反省していると思う?」

「あんまり挑発するようなことは言わないほうがいいよ。面倒だし」


 杉田さんは困ったように微笑む。


「あなたの気持ちを言ってあげたのだから感謝してよね。わたしが言うのは一番トラブルにならないのは分かっているもの」


 千春は肩をすくめる。

 その言葉を杉田さんは否定しなかった。

 だが、わたしには事情が呑み込めない。


「どうして千春がいるの? 話が呑み込めないのだけど」

「暇つぶしに来たの」


 彼女の肩にはバッグがかけられていた。そこからは彼女の授業で使われたと思われるノートが覗いていた。

 学校から暇つぶしに直行できるような距離ではない。

 誰かが呼んだのだろうか。

 杉田さんではないかと一瞬思ったが、彼が千春を呼ぶとは考えにくい。

 杉田さんは千春に学校を休ませまいとしているためだ。成宮監督だったら、直接彼女たちに言うだろう。


「明日、帰るから気にしないで」


 千春はわたしの肩を叩く。

 だが、わたしは笑えなかった。やっぱり引っかかっていたのだ。なぜわたしなのだろう、と。


「わたしはあなたならできると思ったからあなたに頼んだの。わたしはそんなに甘くないし、その面では情に流されることはない。だって友達だっていう理由で選んだら、わたしの母親と比べられて傷つくのはあなたなのだから。そもそも伯父さんとお父さんが認めたからあなたになったのよ」


 千春はわたしの心を見透かしたように言葉を綴る。


 わたしは首を縦に振る。


「今日は美咲の部屋に泊まっていい?」

「いいよ。でも、その呼び方を千春にされると違和感がある」


 千春は肩をすくめて微笑む。


「いいじゃない。美咲ちゃん」

「呼び名はおいておいて、どうして起きてきたんだよ」


 千春の言葉を遮るように、杉田さんが強い口調でわたしに言った。


「もう体調が戻ったから撮影に戻ろうかな、と思って。そんなにややこしいシーンはなかったと思うし」

「全く。監督命令だから、今日はゆっくりしていないとダメだよ」

「はい」


 わたしは親に怒られた子供のようにしゅんと肩を起こした。


「千春は京香を見張っていて」

「了解。じゃ、部屋に戻ろうか」


 千春はわたしの腕をつかみ、杉田さんは撮影現場に戻るようだ。


「何か、京香とあいつって兄妹みたいだね。実際は違うけどさ」

「そんな気はするよ」


 ある意味尚志さんよりも近しい気持ちを抱いていたのかもしれない。その気持ちは尚志さんに対する気持ちとは全く別物だった。

 彼を思っても辛い気持ちになったことは一度もなかった。

 わたしがあの人の子供だと二人が知ったら、どうするのだろうか。

 軽蔑するのだろうか。

 同情するのだろうか。


 そして、本当に、彼は「わたし」を選んでくれたのだろうか。

 わたしはあまりに母親とよく似ていたのだ。

 彼はわたしが自分の子供だと知ればどうするだろう。

 そう思っても、それを口には出せなかった。


 わたしは杉田さんの後姿を見つめる千春の横顔を見た。夕焼けに照らされた彼女の横顔はどこか寂しそうだった。


 翌日、千春は帰っていった。ひろみはそれ以降、NGを出すことがほとんどなくなっていた。


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