天性の才能
幼稚園のころだっただろうか。仲良くしていた子がわたしのところにやってきて、不思議そうに問いかけた。
「京香ちゃんはお父さんがいないの?」
わたしは「いない」と返事をした。
わたしにとってはお父さんのいない生活は当たり前のことで、おはよう、おやすみといった挨拶と同じような感覚で口にしたのだ。
だが、彼女は今にも泣きそうな顔をしてこう言ったのだ。「かわいそう」と。
わたしはそんなことを言われると思っていなかったので、驚いて彼女を見た。
わたしはそのときお父さんがいないことはかわいそうなことだったのか、と知った。
今から考えると親が言っていた言葉を口にしたのだろう。
わたしの根本的な気持ちは変わっていない。
お母さんがわたしを大事にしてくれたからだ。
わたしの鼻腔に香ばしい匂いが届き、ほっと心を息づかせる。
「この紅茶おいしいですね」
わたしの目の前には優しく笑う杉田さんと成宮監督がいた。
わたしと杉田さんは成宮監督の家に来ていたのだ。家と言ってもあのビルの一室に暮らしていて、わたしたちが案内されたのは最上階のフロアだ。
杉田さんと成宮監督は昔からの知り合いなのか親しそうに話をしていた。
「そうか。よかったよ」
彼はわずかに目を細めた。
今日は用事があって呼ばれたわけではない。知り合いからおいしい紅茶をもらったと言い、わたしと杉田さんを案内してきたのだ。
断ってもいいと千春に言われたが、たまにはこうした休日を過ごすのもいいと、杉田さんと一緒に行くことにした。
最初は怖いという印象しかなかったが、彼は会うたびに優しい印象に変わっていった。今日はその中でもひときわ穏やかだ。
「そう言えば渡したいものがあった。持ってくるよ」
彼はそう言い残すと、部屋を出て行ってしまった。
あれくらいの年の人とは学校の先生以外とは今まで関わったことがない。お父さんがいたらあんな感じなのだろうかと考えるが、濃霧の中で手探りをするような、手ごたえのない感覚だ。
「あんなものですか?」
「何が?」
「わたしには、お父さんがいなくて、あれくらいの年の人とは今まで関わったことがないから、男の人ってあんなにテンションが高いものなのかな、って」
彼は肩をすくめる。
「それは人によるよ。僕の父親は無口だからね。成宮監督も無口で、口を開けば怒鳴るイメージしかなかったけど、人は変わるんだろうね」
「それっていつ頃の話ですか?」
わたしが初めて聞く話だった。
「五歳くらいかな。初めての映画でさ、ほんのチョイ役だったけど」
「映画に出てたの?」
「ほんのチョイ役だよ。そのときに千春と出会ったからさ。聞いてなかった?」
「初耳です」
千春が嫌がっていたらしい子役の時代に、今でもつきあいがあるような友人を作っていたとは思わなかったのだ。
「それでそのときに何度か会ったけど、すぐ怒鳴るし、きついこと言うし、意味が分からないしで散々だったよ。それだけ真剣だということなのは分かるけどね。あのときは鬼だと思っていたよ。目を合わせるだけでも嫌だったから」
「意外なようなそうでないような」
わたしが彼と最初に会ったときのイメージのままならそうだっただろう。だが、今の彼のイメージからは程遠い。
「年を取れば丸くなるっていうから丸くなったのかもしれないけどね」
彼は肩をすくめると、微笑んだ。
そのとき、扉が開き、成宮監督が入ってきた。
彼は鍵をわたしたちに渡した。
「四階を好きに使ってくれてかまわないよ。千春に渡してもらうつもりだったんだ。どうせなら今渡しておいたほうがいいと思ってね」
「ありがとうございます。どっちが持っていますか?」
「平井さんが持っているといいよ」
杉田さんの勧めもあり、わたしはその鍵を落とさないようにバッグの中に閉まった。
それからお菓子もごちそうになってから、他愛ない話をし、帰りがけに使ってもいいと言われた部屋に向かうことにした。四階の一番手前の部屋だ。
その部屋の鍵を開けると、何もない殺風景な部屋を想像していたが、ソファや机だけではなく、台所には冷蔵庫なども置いてあり、いつでも暮らせそうなほど物が整っていた。部屋の広さも想像以上に広く、わたしが暮らしているマンションに匹敵する。
「すごいですね」
「これだけの場所を遊ばせておけるのもなかなかすごいよ」
杉田さんも苦笑いを浮かべていた。
「どうしようか。すぐに帰る?」
「お願いがあります」
「何?」
「勇になってほしい」
勇とは恋人になる男性の名前だ。
彼は意外そうな顔をした。
「実力を測るってことか」
「そういう大げさな話じゃなくて、興味があったんです。千春も杉田さんを買っていたみたいだし、どんな演技をするのかな、って」
「わかった。お手柔らかにね」
彼はそう言うと、目を閉じて、息を吐いた。
ゆっくりと目を開く。
その目を見て、わたしはどきりとする。
そのときの彼はさっきまでの愛らしい少年のような瞳をした少年ではなく、ぬくもりを知らない冷めた目の少年に変わっていたのだ。その瞳には絶望が見え隠れし、手を伸ばしてその体に触れるだけで、体が砕け散り虚に飲み込まれてしまいそうだった。
彼は目を閉じ、再び深呼吸をした。再び目を開いた彼は杉田さんに戻っていた。
知らないうちに息が止まっていて、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「どう?」
「すごいです。初めて千春の演技を見たときみたい」
「さすがにそれはほめ過ぎだけど、気に入ってもらえたみたいでよかった」
彼は目を細める。
「ずっと芝居の勉強をしていたの?」
「僕は小学校に上がる前までね。それから久々に千春から言われて、やってみようと思ったんだ」
こういうのを天賦の才というのだろうか。
そう思ったとき、わたしの携帯が鳴る。発信者は千春だ。
わたしが電話を取るのと同時に、千春が話を切り出してきたのだ。
「今、おじさんの家にいるの?」
「そうだよ。今、練習部屋を見せてもらって帰るところ」
「なら四階の部屋だね。そこにすぐ行くから待っていて」
「すぐって」
わたしの問いかけの代わりに電話を切る音が聞こえてきた。
「千春ちゃん、どうかした?」
「すぐ来るらしいです」
そのわたしの言葉に反応するように、チャイムの音が鳴る。杉田さんが玄関まで出迎えると、そこには千春の姿があった。
彼女は部屋の中に入ってくると、顔の前で両手を合わせた。
「お願いがあるの」
彼女は持っていた台本を私と杉田さんの前に差し出す。
それは意外な一面を目撃するシーンだ。
「ここを演じてくれない? それでその映像を撮らせてほしいの」
「撮るって伯父さんが?」
「じゃなくて、わたしが撮るから。お願い」
わたしは杉田さんを見た。彼は別にかまわないと言いたそうに肩をすくめている。
「いつから、始めればいい」
「いつでもいいよ。あとはわたしのほうで編集するから」
彼女はそういうと、スマホを取り出し、撮影を始めたようだ。
わたしは脚本に目を落とし、何度も頭の中で繰り返す。
深呼吸をすると、そこには冷たい中にもやさしさを宿した目をした杉田さんの姿があった。彼は腰を落とし、捨てられた猫の頭を撫でていたのだ。彼の優しく動く指先には猫の姿が垣間見えた。
彼が振り返り、わたしの姿を捉える。その彼の瞳からわずかなやさしさはあっという間に消失する。
まるで大事な人の一面を見て裏切られたような感覚だ。
彼は背を向け、そのまま傘を置き立ち去っていく。
わたしはその彼が見つめていた猫のところまで歩いていき、足を止めた。
「ありがとう」
千春が満面の笑みを浮かべてそう告げた。
わたしも杉田さんもほっと胸をなでおろした。
「こんなんでいいの?」
「いいよ。上出来。外に出すわけじゃないから、気にしないでね。じゃ、またね」
彼女は何度もお礼を言うと、さっさと出て行ってしまった。
わたしは意味が分からず、杉田さんを見ると、彼と目が合った。
「何があるんだろう。映画のことなら伯父さんが撮るよね?」
「何となく分かったかも」
彼は困ったような笑みを浮かべていた。
「そのうち分かると思うよ」
彼はあいまいにぼかしたまま、その答えを教えてくれなかった。




