遠くから見た彼の姿
高校三年になった。尚志さんとはあれ以来一度も会っていなかった。千春も何か察したのか、兄から言われたのか、わたしの前で尚志さんの名前を出すこともなくなっていた。
あの話がなければ一緒に初詣に行ったり、クリスマスを祝ったりすることができたのではないか。出ると決めたはずなのに、わたしの心が幾度となくぐらついていた。
今なら引き返すことができるのではないか。わたしはそう思うとこぶしを握る。
「成宮さんのお兄さんってどんな人か知っている?」
わたしの体に影がかかると同時に、そんな言葉が耳に届く。その発言主は弘だ。
「どうしたの?」
わたしはどきりとしながら、頬杖をついたまま彼に返事をした。
「いや、成宮さんにどんな人が好きかって聞いたら、お兄さんみたいな人って言われたから知っておこうと思ったんだよ」
「千春に告白したの?」
途絶えてしまったわたしの初恋とは対照的に、弘と千春が一緒にいるのをたまに目にしていた。
ただ、彼の思いが届くかといえば、よくわからなかった。
わたしの問いかけに弘が焦りを露わにする。
「好みのタイプを聞いただけだけだよ」
千春は思い当たる人がいなくて言っても差し障りのないような名前を出したのか、本当に兄のような存在がいいと思ったのかは分からない。だが、尚志さんを理想とするなら、彼女の理想はかなり高い。
「かっこいい人だよ。千春のことを一番大事に思っていると思う」
加えてわたしの大好きな人だけど、それはあえて伏せておいた。
「そんなにかっこいい?」
「千春のお兄さんだもん」
「確かに」
彼は難しい顔をしていた。
千春が本気でそう思っていたら、彼女の理想は相当高いだろう。
「千春の好みはよく分からないけど、同じ大学にいけるようにでも頑張ってみたら? もちろん志望を変更しても問題ないならだけどね」
彼女は理系でわたしは文系で、一概に比較はできないが、彼女もかなり成績は良かった。恐らく、兄と同じ大学に行くだろう。
「俺の成績じゃ厳しいよ。それに理系と文系じゃつながりもなさそうだよ」
「話せる機会はあるんじゃない? それなりにね」
弘はいい人だとは思う。一目ぼれのような恋愛だったが、彼が本気で千春を思っていることはよくわかる。だが、千春の好みに合致するかは分からなかったからだ。
「そうだよな。お前、いいこと言うな。景気づけに大学でも見てこようかな」
弘は目を輝かせこぶしを握る。
わたしは弘の言葉に眉根を寄せた。
「だから、来年通うかもしれないキャンバスを一目見てこようかなと思ってさ。志気を高めるために」
「そんなのより千春の写真でも手に入れたほうがやる気が出そうだよね。弘の場合は」
「くれるの?」
「あげない。自分で入手しなさい」
「まあ、そうだよな。それはおいといてさ、一人で行くのもなんだし、京香も一緒に来ない? 志望校はそこだよな」
「そうだね」
弘にも、高校にも大学を受けないことは伝えていない。
だわたしが通うはずだった大学をなんとなく見てみたかったのだ。そこに行けば彼を遠くから見られるかもしれないという気持ちがなかったといえば嘘になる。
わたしたちは相談した結果、一度家に帰って着替え、駅で待ち合わせることにした。
大学に行くだけなら適当な洋服でいいが、どこかで尚志さんに会えるかもしれないという気持ちがあった。そのため、母親にこの前買ってもらったピンクの花柄のワンピースを着ていくことにした。
駅に来たわたしを見て、弘は目を丸める。
「何よ」
「お前でもそんな洋服を着たらそれなりに見えるんだなって」
「褒めてないよ」
「冗談。京香は何を着ても可愛いと思うよ」
彼は他意のない表情でそう言った。
「それを千春に言えたらいいのにね」
「悪かったな」
わたしたちは顔を見合わせると笑い出した。
大学まで行くと、外から構内を覗き込む。
向こう側から生徒らしき男性の二人組が歩いてきて、思わず背を向けて身を隠してしまっていた。
「そんなにことをしていたら逆に怪しいよ」
「緊張するじゃない」
「入るから、ついてこいよ」
弘はそういうとわたしの腕をつかんだ。
わたしは彼にひっぱられるようにして大学の構内に入った。
中は夕方の五時を回っているためか、人気があまりなく静かだった。
「閑散としているな」
「もう時間も遅いしね」
わたしたちは辺りを散策することにした。
総合大学だけあって高校とは比べ物にならないほどの広さだった。それぞれの建物の形は違うが、ぱっと見、似たような景色が広がっていた。
辺りを見渡していると、弘が腕をつかんだ。
「あまりきょろきょろすると不審人物に見えるよ」
「だって、面白くて。迷子になっちゃいそうなくらい広いね」
「迷子になるなよ」
「分かっているよ」
わたしが頬を膨らませると、弘は仕方ないなと言って苦笑いを浮かべていた。
そのとき、古ぼけた校舎の影に自販機が置いてあるのに気付いた。
弘を見ると、彼もわたしが見ていたものを理解したのか、大げさに肩をすくめた。
「買ってくるよ。京香は緑茶だよな」
彼はそういうと、わたしの答えを聞かずに歩いていった。
幼馴染だけあって、こうした場合の意思の疎通は早い。
男女の友情は続かないと言うが、わたしと弘は一生よい友人でいられそうな気がする。
お互いを好きになることもないと分かっているから。
わたしは天を仰ぐ。
弘の半分だけでも尚志さんが何を考えているのか分かれば、わたしたちの関係も変わってくるのだろうか。
同じ町にあるのに、全く別の空間が広がっているようだ。この大学の構内に毎日尚志さんが通っていると思うと不思議だった。
わたしの気持ちが届くことはない。
分かっていても、彼のことを忘れられるのか、見当つかなかった。
わたしは胸元に拳を当てると、短く息を吐いた。
わたしが気持ちを整えるのを待っていたかのように、高い声が静まり返った構内に響いた。
「やだ、成宮くんたら」
低い、わたしの心にダイレクトに届く笑い声が聞こえた。
その声を聞き、わたしの胸がどくんと鳴った。尚志さんの声だったのだ。
すぐに振り向いて彼の姿を確認したい。振り向いて、目が合って彼だったらどうするのだろう。
彼が万が一わたしに気づいて、迷惑そうに眉間にしわを寄せた顔で見たら、どうするのだろう。
そう思うと、わたしの体はかなしばりにかかったように動かなかった。
少しずつ話し声が遠ざかっていく。
その声を聞きながら、目に涙が溢れるのが分かった。
わたしは唇を噛み締める。
誰と話をしているのだろう。彼女なのだろうか。ただの友人なのだろうか。
彼は彼女のことを、彼女は彼のことをどう思っているのだろうか。
絶対に聞くことができない問いかけを心の中で延々と繰り返していた。
その声がほんとうに小さくなってから、やっと目で追った。
そこにあったのは、尚志さんの後姿で、彼の隣には髪の毛を短く切った女性がいた。
すぐには顔が見えなかったが、二人が角を曲がろうとしたとき、わたしの場所から、二人の表情を確認できた。
彼はわたしの予想通り笑っていた。
わたしに出会った頃は見せてくれた、今は絶対に見せてくれないような優しい笑顔だ。
わたしの胸がやけどをしたように痛んだ。
わたしは彼に避けられながら、それでも心のどこかで自惚れていたのだ。
家を出るのが面倒だと言っていた彼がわたしと一緒にいろんなところに出かけてくれて、家まで送り迎えしてくれる。だから千春と同じまではいかなくても、近いくらいに大事に思われている、と。だが、目の前の現実が、わたしはその他大勢の一人でしかないと教えてくれていたのだ。
わたしのこぶしの上で涙がはじけ、どんどん量が増えていった。




